人生の最後に『本当に好きなこと』はできるものなのか
昨日は母の命日でした。
亡くなって17年になりますが、今でも母の人生を想います。
もちろん忘れることはないけど、今年は特に考える時間が多いような。
それは61歳で亡くなった母が、最後に本当にやりたいことを始めた年齢に私自身が近づいているせいかなと。
今やりたいことをやるために自分の心に向き合うこと。
これがどれほど難しいことか。
そして何より必要であることか。
今日は改めて母の人生を思い出して自分の心を整理したい。
まったくNFTどころかイラストの話でもありませんが。
でも、もしかしたら、いつかこんな話が必要な人に届くかも?
そんな偶然があれば嬉しいなあと思います。
いわゆるひとつの激動の人生(長い長い母のお話)
母のやりたかったことを先に言うと『英語』です。
オードリー・ヘプバーンやヴィヴィアン・リーといった映画俳優の精巧な鉛筆画が何枚も残っていたので『絵』も好きだったようですが、それは洋画が好きだったから。
母は子供の頃から英語の勉強をするのが夢でした。
教師には進学を進められていたけれど、そこは貧しい家庭の5人姉妹の長女。
卒業後はすぐに働くしか選択肢はなかった。
働き出してまもなく、私の父と出会い結婚します。
お互い映画が好きで趣味が一致したので良いかと思ったそうです。
しかし、これが母の激動の人生の始まり。
私の父はなかなかのロクデナシでした。
父も既に亡くなってるので感情は置いときますが、早い話が借金と暴力が特に酷かった。
私が高校生の時に調停離婚しましたが、慰謝料どころか養育費も払ってない。
元より家に1円も入れてないので、裁判所に言われたからって払うわけないのよ。
父は外からはとても良い人に見えるので、
「金払いが良くてやらしいことも言わない素敵なお客さんだったから、離婚の原因は奥さんでしょ」
などと、当時の父の豪遊先の飲み屋のママが言っていたと十数年後に知りました。
世の『人をみる目がある』と言われる職業人を超えてくる父親です。
父の、今で言うDVに加え、そんな家庭なので姉は見事に積み木くずし(検索してくださいまし)。
学校だ警察だと呼ばれては、忙しい仕事の合間に奔走していた母。
姉の話は省略しますが、芸者になったことで少し落ち着きます。
置屋の姐さん(女主人)が正にしゃんとした人で、母は少し安心したようでした。
食器の割れる音と怒号が飛び交う家。
そりゃもう毎日が地獄。
それでもなんとか離婚できて、家の名義も母になったものの、そうです、ローンを引き続き払うのは母。それまでも父の借金は全て母が返済してるので変わらないんですが。
職場は職場で、不器用な母は主任として勤めていたにもかかわらず手柄を横取りされ(これが10年後に会社の引越しで判明するというね)、給料安くてローンも払えないしってことで辞め、牛乳販売店を始めることに。
並行して宅建主任者の資格を取り、土日は不動産会社でも働いてました。
他にもいろんな仕事をしてたなぁなんて思い出します。
私も朝の牛乳配達を手伝っていた時期がありますが、運転中ってラジオ聞いてるんですよ。CDなんてかけられない軽トラだったから。
朝の配達は夜明け前からで、よく音楽ラジオを流していたものです。
そのうちに、母はラジオの英語講座を聴くようになりました。
最後は子供の頃に好きだったものに戻る説
きっかけは大きいものだけじゃなくて、小さなことの集合体だったりします。
ずっと洋画が好きなのは変わらなかった母。
私があっけなく挫折した翻訳家通信講座をこっそり続けてたなんてのもありました。
英語に触れる機会が少しずつ増えたわけです。
私は早くに結婚して家を出ましたが、なまじモテた姉は遊びたい欲もあり、なかなか落ち着く気配を見せず。
相変わらず危なっかしいのを心配した母は、姉のために古いマンション(という名のボロ団地)を購入してみたり。
姉に関して母は、子供の頃から亡くなる直前までずっと気にかけていました。
英語に触れて、やっぱり好きだという気持ちが膨らみきったあたりで姉も結婚。
過去のヤバい恋人たちと違い、たいへん真っ当な人がお相手で、ようやく肩の荷が降りたと言う母。
ついに決断する時がきました。
これからは気兼ねなく自分の人生を歩もう。
そしてそれは英語の勉強をする事なんだ、と。
決断してからの動きは早く、家…は既に価値がありませんが土地を売却し、大学の2部に入学するための資金に。
入試代わりの自己推薦文を書き上げ、合格すると学校近くの夢の国の社員食堂でのアルバイトも決めて。
1週間後に入学金が倍に値上がる予定だったとか、
たまたま見た求人が学校の近くだったとか、
叔母(母の妹)がお金を貸してくれたとか、
「やっぱり無理かも」
って諦めそうな状況になると不思議と救いの手が現れたそうです。
曰く、運命が後押ししてくれている、と。
母は話すことが大好きだったんです。
よく呼び出されてはご飯を食べながら、
読んだ本の話や映画の内容、
美味しかったお菓子の話、
姉や人間関係の愚痴も、
いろんな話をたくさんしていました。
だから母の言葉や物語がずーっと残ってる。
くだらない冗談も悲しい出来事も。
あ!
でもひとつ許されないおしゃべりがあったのだけ、暴露しとこう。
『シックス・センス』のネタバレしてくれちゃってんですよ、この人。
普段ネタバレはあまり気にならないけど、後でこの映画を見始めた瞬間に崩れ落ちました。『シックス・センス』のネタバレだけはダメ、ぜったい。
失礼。戻ります。
いろんな話の中に、私に発破かけることも多かったけど、自分のやりたい事に進み始めてからそれは減りました。
娘に自分の願望を代わりに叶えてもらう必要が無くなったからですよね、きっと。
「人間、歳とると子供の頃に好きだったものに戻るのかも。お母さん、やっぱり英語の勉強がしたいの」
この言葉を、その時は
「そんなものかねー」
なんて聞き流していましたが、案外そうかも、なんて気持ちの昨今です。
ずっとずっとやりたかった英語の勉強を始めた母。
離婚して少し明るくなったんですが、その時以上に楽しそうでした。
そんな人が勉強して成績が悪いわけもなく、とても優秀だったようです。
学部からそれぞれ数人しか行かせてもらえないという、夏休みのアメリカの大学への短期留学。
卒業式には学部の代表で卒業証書をもらい、そのまま大学院に進みました。
卒業式には姉と参列しましたが、ステージの母を見てとても誇らしかった。
娘より若い同級生とも親しくしていて、よく車で送り迎えなどしてあげていたようです。
「もう、あの子たち、ちっとも勉強しないのよ。せっかく学校に通えてるのにもったいない!」
なんて、こちらも耳が痛くなるようなことも笑って話していました。
人生の最後がいつかはわからないけど最後に嫌なことはしたくない
母のがんが見つかったのは大学院一回生の終わり頃でした。
スキルス性の胃がんで余命3ヶ月と言われたのが1月だったので、1ヶ月長く頑張ってくれたんだなあと思います。
でも本当にあっという間でした。
そんなのってない。
ずっと辛い思いをしてきたのに。
長い間その気持ちが消えませんでした。
好きな英語を勉強できてはいましたが、嫌なことが無いわけではなかったんです。
友人からは
「あなたみたいなオバさんが、今更英語なんて勉強してどうするの?」
と笑われたり(その理論は「結局死ぬのに生きててどうするの?」に繋がると思うんだけど)、
大学の教授が、講義の最中にあからさまに
「私は中年の女が大っ嫌いなんですよ」
とほぼ名指しで言ってきたり(ものを教える人が必ずしも人格者じゃない実例)、
聞いてるこちらが怒りで震えるようなこともあったのです。
教授には挨拶しても無視されるからおかしいとは思っていたそうですが、
「もういいの。せっかく好きな勉強をしてるんだから、もう嫌なことはしない」
と、その教授の講義に出るのはやめたそうです。
母は私が覚えてるかぎり、ずっと働いていたのです。
私は3歳くらいの頃、他人の家に預けられていました。
その後保育園に行くことにもなりましたが、仕事の帰りが遅く、いつも最後まで残っていたのを覚えています。お迎えが来なくて先生に手を引かれて帰ったことも。
借金があってどうしても働かなければならないから。
それくらい昔からずっと働いていた母です。
私には私の苦しみがあるので、母に対する想いが愛情と尊敬だけというわけにはいかないけれど、それでもずっと大変だった母の人生の最後がこうだなんてあんまりじゃないかと思わずにいられなかった。
でもある日、病室で母が言ったのです。
「辛いことの多い人生だったけど、最後に好きな英語の勉強をできて幸せだった」
「生きてきて良かったと思ってる」
自分の心に本音を訊くのが大変な人もいる。焦らずいこう
幸せに感じることって人によって違うなんて当たり前のことなんですが、親子となると少数派の感覚というものを受け入れがたいところがありませんか。
家族愛も人それぞれ分量が違うんです。
違うのは悪いことじゃ無い。
ただ、その問題を抱えて生きるだけです。
母は自己実現したい人だったんだと、本当は昔から知っていました。
子供としてはなかなか受け入れがたいことではありましたが。
子供としては受け入れがたくても、母の人生を想ったときには自分も救われた気持ちです。
子供に愛情がないなんて言わないです。
あんな大変な思いをして育ててくれたんだから、そこは疑ってません。
ただ私がずっと感じていて、でも他人には「そんなわけないじゃない」なんて言われてしまうから口には出せないこと。
でも母の口から最後に聞けたこと。
その事実を踏まえて、母は
自己実現できることが大きな幸せになる人、
だったんです。
だから母の選択は間違っていなかった。
では私は?私も同じなのかな?
そうじゃないよね。
似ているところも多いけど、母と私は違う人間なのです。
どうしても母を喜ばせたい、私を認めて欲しい。
子供としては自然な、どうしようもない欲求です。
そんな欲求の霧が長い間頭の中にかかって先が見えなかった。
今もなかなか晴れてくれませんが、それでも少しずつ空模様が変わってきている気がします。
本当にやりたいことを自分に訊こう。
そしてそれをやろう。
それは「母がしたかったこと」じゃなくて、「私がしたいこと」じゃないとね。
幸い、年齢は関係ないって母が証明してくれてるし。
母の葬儀には仲良くしてた若い同級生たちも来てくれました。
母が他人に親切にしすぎて子供の頃からほっとかれていたので、それなりに恨みもあったんですが、そういう生き方はやっぱり尊いんですよね。
こうして母のために泣いてくれる人がいるのも心底有難かったというのもあります。
子供としての自分と、どう生きたいかを考える自分とでは意見が合わないこともある。
それは仕方ない。
少しずつ根気良く自分の心に訊いていこう。
時間がないかなって焦っちゃうけど、焦っちゃだめっていうのも逆に焦るから、なるべくフラットに(何言ってんだ、ムズイな)。
そしてもう一つ大事なのは、どうしてもやりたくないことはやらない。
これも残念ながら、お焦げのようにこびり付いた習性が自分の本当の気持ちを隠しているので、まずはそれをこそげ落とさないと『本当にやりたくないこと』がわからない。
『本当にやりたいこと』か。
『本当にやりたくないこと』か。
どちらかでもわかれば端緒は見つけたようなものだ!と思うのです。
ただ、ヒントは母の言う通り、子供の頃にもあるんじゃないかな。
人生の最後に本当に好きなことをするために思い出してみよう。
食べ物
色
匂い
時間
テレビ番組
場所
いろいろ、いろいろ。
さて、子供の頃、何が好きでした?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?