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前輪を上げて見える景色は

 砂利道で車椅子を押して進むときは、前輪を上げてしまうのが良い。後輪の大きな車輪だけ使う方が地面の凹凸の衝撃を吸収できる。いつものように「前輪上げますね」と声をかけて、その人は少し仰向けに傾いた。「今日も暑くなりそうですね」と話しかける私に「そいだね~」と一言だけ返すのがお決まりだった。

 自宅から車まで100m程の砂利小道を行く。週三日、病院へ通う。左は畑で右は杉の森。木の枝がつくるトンネルから、いつも涼しい風が吹いていた。
 病院からは何度も入院を勧められたが、自宅で過ごすことに強くこだわった。90才が近い。人生の終盤を自宅で過ごしたいと思うのは当然だ。しかし、身体は思うように動かなくなる。最初は杖をついて自分で歩いたが、半年で状況は大きく変わり、車椅子に。自宅で転倒することも多くなって、家族の心配と疲労も大きくなっていた。

 「入院すると、もう会えないかもしれない」
 入院と自宅介護、二つの現実の狭間で、奥様は覚悟しきれない声を漏らしていた。

 夏の終わり。病院の待合室。車椅子に座っているその人はうつ向いていた。隣では奥様と息子さんが看護師から入院の説明を受けている。ついに入院するのだ。
 窓から差し込む光は優しくその人の背中を照らす。その様子は、気持ちよく居眠りしているようにも、諦めてがっくりしているようにも見えた。
 「では、こちらへ」と促されて動き出した車椅子。本人に何か挨拶をと思ったが、言葉が見つからない。半年間、顔を合わせ言葉を交わした仲だからこそ「また会いましょうね」が出なかった。

 しばらくして奥様に会うため、またあの道を歩いた。変わらない風が肌を優しく撫でていく。少し仰向けに傾いたあの人はどんな目線だったのか。見慣れた森と空を感じていたなら、嬉しいのだけど。


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