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抜歯願望

5歳の息子の前歯が今にも抜けようとしている。それは前方に傾き、隣の歯との隙間が広がって、既に空間が出来てしまっている。彼の笑顔を見る度に、もう抜けてしまったかと間違えそうだ。
私「あれ!歯、ないよ!」
息子「まだあるよ!」
そんな親子の会話をしながら、その時がくるのを待っている。

息子の歯が生え変わるのはこれが初めてだ。その成長を喜ばしく思うのは親として当然だが、同じく目を輝かせているのが私の父、息子からするとグランパである。

孫が遊びに来る度、歯を確認し「もういつでも抜ける」「グランパが抜いてあげようか?」と、しきりに問いかける。それに対して私の息子は抗うのだが、ぐらぐらして落ち着かないその歯の最終ゴールが見えずに戸惑っている。グランパに抜いてもらうことになるのかもしれない、と私にもらしたりする。

思えば、私が子どもの頃もそうだった。歯がグラつき始めた時の父はとても嬉しそうだった。気付かないように抜く方法、糸を巻く方法、堅いものを食べる方法、色々な方法を試された私は父の実験台であり、それは間違いなく彼の「抜歯願望」であった。

それは歯に止まらなかった。ものもらいで目が腫れれば、涙腺から一本の髪の毛を挿し込み、中に溜まり固まった膿を突き崩し、指で押し出した(絶対に真似しないでください)。思春期に出来た大きなニキビは「潰した方がいい」という父の診断のもと、何個か膿を出されて潰された。後になって、TVの医学バラエティーで医師が語った方法とは真逆であることが分かり、父に恨み節を言ったものだ。

さらに言うと、父は自分で負ったちょっと深い傷口は自分で縫った。麻酔なしで。そして傷口が閉じたと判断すると今度は自分で抜糸した。それは流石に見てられなかったが、何故か父は、子どもたちにそれを報告し誇らしげだった。それは「強く逞しく生きろよ」という、世界一ありがた迷惑なメッセージだったが、子供たちにそこまでしなかったのは理性がある証拠だ。これらは全て、いわば治療願望のようなものだ。お医者さんごっこの度が過ぎたものだろうか。

私が遠方で一人暮らしをしていた時、たまたま映画「ランボー」がTVで放送されたことがあった。主人公が野営をしているその焚火でナイフを熱し、それを傷口に当て、傷を塞ぐというシーンを見たことがある。そのとき程、故郷の父を懐かしく想ったことはない。

このように具体的な処置を文章にすると父の無茶が分かる。もし私が本気で嫌がったのであれば、それは虐待となっただろうが、何故か私は嫌がらなかった。むしろすんなりと自分の身を預け「抜けた歯を観察しよう」とか、「自分からどれだけ多くの膿が出てくるのか」とか、変な知的好奇心の方が勝っていた。そしてヤブ医者の施術自体は対して痛くなかったのだ。

今回、孫の健やかなる成長段階が巡って来て、再び彼のサイコパスな一面が現れた。孫の初めての抜歯を、成長の喜びではなく、施術の喜びとして捉えている。

しかし、その孫からついに「歯が抜けるまで、グランパのうちには行かない」という宣言がでた。この歯は自分で抜くんだと決意したのだ。おそらく2~3日で抜けるであろうその歯を、グランパは事後に見せられるのだろう。「あれ~抜いちゃったのかよ!?」と残念そうな表情をするグランパが想像できる。

そんな息子の小さな成長を前に、私は笑顔で息子に言った。
「じゃあ、それパパに抜かせてよ!」
気付いてしまった。自分の中にもしっかりと「抜歯願望」が引き継がれていることを。


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