ジョルジュ・ムスタキの「困った顔」


ムスタキは1973年に続いて1976年二度目の来日。この1976年には日本全国23ヶ所のコンサート・ツアーを行った。
ワタシがムスタキの生のステージを見たのはこのときが初めてでした。2000人以上のキャパの大会場、1974年のTVドラマの主題歌に彼のシャンソンが流れたからだろうか?満席だった。
そしてコンサート終了後、楽屋から出てくるムスタキ、もちろんファンによるサイン攻めもあったのだが、ワタシが約3メートルくらいの距離で見たのは観客に囲まれながら少し首を傾けて困った顔のムスタキだった。

来日した外国のシャンソン歌手(シャンソン歌手ってのもおかしな言葉だけど)のライブ・コンサートとしては大入りだったのだろうけれど。これはやはり2000人収容できる会場が大きすぎたのではないだろうか。 ムスタキが初来日して初ライブした1973年4月。場所はTBSホールでキャパ300人だった。もちろんそのコンサートも満員だったらしい。ムスタキは300人も2000人でも同じようにに歌い演奏していたのだろう。歌詞の問題はやはり大きいのかもしれない。字幕がプロジャクターで投影されたり通訳者は途中で出てきて説明したりとか、一切なかったように記憶している。そしてムスタキを初めて聞くグンマーの聴衆。終演後のロビーで聞こえた会話。
「なんか、今一つだったわね、この前のキパラジュン( フォルクローレのグループ)はよかったけど。」
それでもムスタキ群馬ライブは割れんばかりの拍手とアンコール数曲で締めくくられたのだが。

その後ムスタキは1989年にも来日して昭和女子大学 人見記念講堂でライブをした、ワタシは残念ながら聴きに行けなかったがその様子はBSでも放映された。
さらにムスタキは、1995年には「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」に参加するため(審査委員長だった)来日した。そのほかの来日した回数日付はワタシは詳しくは知らない。
その後にムスタキが一般公演をしたのが1999年5月の府中の森芸術劇場であった。

1999年5月23日 午後5時 府中の森芸術劇場
あまりに久しぶり。群馬で初めて初ライブを聴いてから23年。
ワタシは予約開始日にチケット予約した。予約できた座席はそれでも8列目。このときは東京(府中)と大阪の2箇所だけ公演だったと思う。この久しぶりのムスタキライブに関しては当時ワタシはかなりリキいれてレポを書いてWEB上にアップした。以降そのレポの一部を引用しながら話を進める。太字の箇所がその引用箇所、ホントは全部載せたいのですけど、長いのでね。

1999年5月23日 午後5時 府中の森芸術劇場
さて、待ちに待ったその時が来た。生のムスタキのシャンソンが聞けるのだ。高校生の時、彼のシャンソンと歌声に魅せられて以来の私は彼のファン。彼の新しいアルバムを心待ちにし、数え切れない独りの夜を彼のシャンソンとともに過ごした。

中略

次に歌ういくつかのシャンソンはムスタキ詩、曲はギリシャの有名な作曲家、マノス・ハジダキスとミキス・テオドラキスのもの。
『若い郵便屋』 マノス・ハジダキス。
『傷心』 マノス・ハジダキス。加藤登紀子さんもレコーディングした曲。親しみやすい旋律。ムスタキは聴衆と一緒に歌おうとするが、客席からの歌声は小さい、私は勿論口ずさんだが、彼のレパートリーの詩をほぼ暗記してメロディを口ずさめる人はこの会場に何人いるのだろう。軍事政権下のギリシャではこの歌を歌うと逮捕されたそうだ。
『二つの望み』 やはり軍事政権に抵抗する闘志でもあったテオドラキスの曲・・・・我らは二人、時と共に、雨と共に、乾いた血と共に、我々の中に生き、我々を貫き、釘付けにする苦悩と共に・・・・
さて、この曲のラスト、ムスタキはかなり荒々しくギターを弾き終えた。私、一瞬ムスタキが怒っているのかと思ったが、やはりムスタキは感情的になっていたと思う。愛の歌も、このような政治的立場を明確にし、身の危険を犯しても軍事政権に抵抗した人々に捧げた歌も、同じように静かに聴き、丁寧に拍手する日本の聴衆に苛立ちを覚えたのだろう。・・・自分の主張・・・シャンソンをホントに理解しているのか、この極東の島の人間は・・・


このとき一瞬ムスタキが見せた表情が忘れられない。

自分が一番言いたいその一行が完全に無視されている、そのような経験。このときのムスタキの心情はそれに近いものだったのだろうと思う。尊敬する作曲家の作品。自分が何十年も大事にし、歌ってきた歌ならなおさら。だがムスタキはギターを置いて立ち去る事をせず、少し深呼吸したようだ。次の曲を始める。

よい歌ならブラボー。だめならブーイング。
これがない(できない)のですね、日本人。自分の感情を他人の前で明らかにすることに躊躇するというのか。みんな一緒ならかなりなことをするのだけれど。
もちろんこのときの観客からもブラボーという声は上がってはいた。でもステージから見ると観客の反応はよくわかるのだろう。
1976年にワタシが見たムスタキの困った顔。その時はまだムスタキは日本人のこの習性?をよくわかっていなかったのかも。そして1999年。海外でコンサートを繰り返してきたムスタキだから、異なる国々のそれぞれの聴衆の特徴はしっかりと把握していたのだろう。
それだからムスタキが日本に来る回数はヨーロッパ(イタリア・スペインなど)と比べて少ないのは単に遠いだけではなかったのかもしれない。

アンコールの拍手の中ムスタキが再び舞台へ
『彼への贈り物』ライブでいつも最後のほうで演奏するノリのよい曲。手拍子も最高潮。ここでムスタキが水平にした手のひらを軽く上下に動かす。客席の最前列が帰り支度を、いや一列ずつ客は立ち上がっているのだ!!
8列目の私も勿論立ち上がる!!ついでに通路へ飛び出す。
頭上で手拍子!!振りかえれば、おお!!2千人の観客が総立ちではないかぁ!!
通路に出た客は舞台へと近づく、警備員も。


・・・てな感じで、このコンサート終盤は「お決まりの」総立ち状態だったが、ステージに押しかける聴衆、おしとどめる警備員という構図は出現せずみんな仲良くおとなしく立ち上がって拍手とアンコール。これは1976年と同じだったかも。
ムスタキももう感情的になることもなく、この国の人はこういうものだと・・・悲しい言い方だが「あきらめた」のかもしれない。
そしてワタシもまたまわりのみんなと同じような反応。労音の言う通り録音も画像も撮影しなかった。




この来日コンサートから遡ること15年前
1984年に発売されたムスタキのアルバム

 ESPACE ET TEMPS

のなかに

『友だちのために』 POUR UN AMI
という歌がある。
その一節

》私は世界を訪れ 戻ってきた
》魂を浪費し 途方に暮れた
》もう何も考えないために
》この音楽を演奏する

1999年のかなり前からムスタキは各国各地をめぐりヨーロッパからブラジル、極東まで旅をし、歌ってきた。
期待・・・見知らぬ国初めての国初めての人々を前にして歌うのだから、もちろん期待に満ちてギターを抱えてそれらの人々の前に立って、そして歌ったのだろう。もちろん期待どおりでなかったことも多々あったのだろう。
そんな事も含めて、ムスタキは体験したこと、自分の心に起こった事柄を正直に書いて歌ってきたのだ。
それは時に痛々しい感じを聴き手に感じさせるときもあるのだが、聴き手はそれに感動するのだ。それについていくつか彼のシャンソンの詩を挙げようかと思ったけれども省略する。ムスタキのシャンソンに涙するとき、不思議な心の浄化作用がある、本当に不思議だと思う。それは一見成功したような外見の裏にどんなに絶望や失望を経験しなければならなかったか、でも、それを乗り越えて歌い続けてきたムスタキのその姿勢に感動するからなのだろう。

そうだよね、ムスタキ、私もそれに似たを気持ちをもったことがあるよ。飾らずにそんなあなたの傷口を歌ってくれてありがとう。あなたみたいに才能はないけれど私はあなたとも同じような生き方ができたらと思っていたんだ、自分にできることは限られているだろうけど。

この「そうだよね。」とリアクションしたくなるのだ、ムスタキのシャンソンは。
ムスタキのキャチコピー「ムスタキに出会えた人は幸せ」
ワタシは実感しています。
あと誰か評論家の書いたムスタキ。
「彼は自分の傷口を眼にして世界を見ている」
これは、そのまんまほぼ正確なムスタキの印象を述べていると思います。

ということで1976年に目撃したムスタキの「困った顔」その表情を忘れずに47年、今あらためて整理してみました。強引なとこもいい加減なとこもある文章ですいません。そして長くなりましたのでこれくらいで筆を置きますってキーボードなんだけど(^_^:

》僕らは望んだ 歴史の流れを変えようと
中略
》僕らは望んだ 国境に突き当たることなく
》世界中を歩きまわることを

》想像するのは簡単だった
》でも今は何も見えない

NOUS VOULIONS   1987





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