『禁煙記念日』



2018年7月1日の日記より

『7月1日は禁煙記念日』
ワタクシ2008年7月1日にタバコをやめまして、つまり禁煙したまま丸10年過ぎて、その間1本もタバコを吸うことなく過ごしました。それまで約30年間、一日2箱のマイルドセブン(当時230円?)を吸い続けていたのです。それこそクルマで赤信号で一服って感じでしたから。
10年前思い立って、禁煙パッチをマツモトキヨシかなにかで5000円位?で買ってきました。医師に指導を仰ぐこともなかったです。
禁煙を決めたその日、2008年7月1日12:00
まず灰皿を捨てました、ライターも。
そして禁断症状が予測したとおりやって来て、用意しておいた
禁煙パッチを二の腕内側に貼り付けました。

ペタリ

ニコチン成分が皮膚から吸収され、たちまち実際にタバコを吸ったように心が落ち着きイライラ感が解消されていくのが実感できました。
その時、やっぱりタバコはやめられないんだな、と思うでしょうね、みんな。

でも、その時ワタシは逆に思いました

ああ、やっぱりタバコ(ニコチンなど)は麻薬だな。

自分は覚醒剤などの中毒者と同じだったのだ。

ワタシはタバコの奴隷だったのだ。

ワタシの主人はタバコではなくワタシ自身なのだ。

という自覚。

とまあ、誇張して書きましたが、だいたいそんな感じでした。
そのまま吸わずに10年経ちました。
それと禁煙のきっかけをつくってくれた姪っ子三人にも感謝しなければ、です。
オジチャン、タバコやめてね・・・by姪っ子当事8歳
以上 禁煙を考えられている方の参考になりますでしょうか・・・
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さて、ここからは現在2024年の日記。
さらに6年経ってまだ禁煙は続いています。禁煙当初は朝目覚めた時、食事のあと、アルコール・コーヒーを飲んだ時やはりタバコを吸いたくなりました。そのときはニコチンパッチはもうなくなっていたんですがタバコを吸おうとは思いませんでした。それは自分の中ではニコチンは麻薬っていう意識が強かったからです。今は外でタバコの煙のある環境にいた場合は帰宅後その時の衣類はすべて洗濯する、みたいなことになってます。それでも今も時たまフラッシュバック?みたいな感覚を覚えます。つまり食事の後とかびいるを飲んだ時、あれ、なにか足りないぞ、という不足感、で少し考えてみて、それはタバコなのだ、と思い至ることがあります。思い至るだけで吸うことはありませんけれど。

タバコは「孤独」と親しい関係にあるのかな、と今は思います。少なくとも自分はそうでした。ひとりでいるときはタバコの本数が増えました。パソコン作業やTVゲームをするときはすぐタバコ一箱なくなっちゃいましたね。今はタバコ代もかからずライターも持たなくてすんで、なにより自分の臭いを気にしなくなりました。今はそんな身軽感がありますけれど、自分も何度か禁煙に失敗しています。
パイポとかで禁煙しようとしてタバコを捨ててその夜、どうしてもタバコが吸いたくて(禁断症状ですね)アパートの部屋中を探し回りました。するとキッチンの収納の奥にレジ袋に入った未開封のマイルドセブン(もう何年か経っている)を見つけたときの喜び。早速咥えてガスレンジの炎で点火して吸い込んだときのあのタバコのうまさ、そして安堵感。その体験を思い出すと禁煙できない人を一方的に非難など出来ないのです。
だから今でも吸いたい人は自由に吸ってかまわないと思っています。ただ、あなたがいる場所に非喫煙者がいる場合、室内で同席している場合、またしなければいけない場合、あなたの副流煙でその人の鼻の奥や喉が不快感や痛みを感じるということ、この一点をうやむやにしているのならば、そして一方的に相手に我慢を強いることに無自覚なのであれば、それは批判の対象となるのでしょう。非喫煙者は基本的に喫煙者に対して不快な思いはさせていないのですから。
もちろん喫煙していた頃の私も、これくらいは大丈夫だろう、風下だから、とか換気扇がまわっているから、とか理由をつけて非喫煙者の前で吸ってました。
禁煙をする直前までは姪っ子と遊んでいる途中で、ちょっと待って、と離れたところで一服していたあの手間と時間。今はそれは必要ありません。気楽ですね禁煙できて。
でも最近は喫煙者パッシングが多い風潮にはワタシは反対します。喫煙者の皆さんは肩身が狭いですよね。禁煙所少ないですし。

誰にも迷惑かけなければ基本的に自由、それと一方的に迷惑をかけていることが明白ならばそれを行わないという、この2つのことを非喫煙者と喫煙者双方が自覚してお互い我慢し合うこと、それが現実にはどんな形になるのかはわかりませんが、自分にはよくわかりませんが、それを考えるときに非喫煙者は喫煙者の皆さんよりは気楽、かなと思ってしまいます。

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