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物乞いをする人/「普通とは」を考える

もう10年程前の話だ。
基隆の夜市に遊びに行ったときのこと。身体障害を持つ男性が物乞いをしていた。
夜市や縁日などの人が集まるところには、日本ではほとんど見なくなった物乞いがいることがある。

くだんの男性は年齢30歳手前くらい。足が不自由なようで自作と思われるキャスター付きの小さな台車に乗っていた。
滑舌がはっきりせず、何を言っているのか聞き取れないけれど、彼の前に置かれた小鉢が全てを物語っている。

何かをしきりに話していたのだが、急に黙ったかと思うと、袋からペットボトルを取り出した。麻痺も少しあるのかもしれない。キャップを開けるのに相当な集中力を傾けているのが口からはみ出た舌からも見て取れる。
無事に開け終えると、おもむろにズボンのジッパーを下ろして男性のソレを引っ張り出し、小用を足し始めたのだった。

すぐそばの小吃のお店に並んでいて手持ち無沙汰だった私。
ふと視線をあげると、人々が行き交う往来のちょうど向かいで、親に手を繋がれて何かを待っていた少女も、私と同じようにその一部始終を見ていた。

っていうか、ずっと何かを喋りっぱなしだったから、喉を潤す目的でペットボトルを出したんだろうと思ったのよ。
まさかそれにおしっこするなんて思わないじゃない。

*****

しばらく前に、車椅子を利用している男性が飛行機のタラップを這って登らされたというニュースがあった。
ご本人のブログを読ませていただいた。いくつかの記事のうちの一つに「移動が不便だから、飛行機の座席にいながらにして小用を足すことも多々あった」という趣旨のことが書かれていた。
これを読んで上記のエピソードを思い出したのだった。

「誰にも咎められなかったから問題ないと判断した」というふうに書かれてあった。
「咎められなかった」ことと「問題ない」はイコールではない。
夜市で私の真向かいにいた少女は、「ねぇ見て!あのおじさん、ペットボトルにおしっこしてるよ!」と両親に言っただろうか。
それとも、自尊心のなんたるかを理解して、誰にも何も言わずにいただろうか。

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いまはもう取り壊されてしまったけれど、かつて台北駅前には歩道橋があった。
台鐵台北車站と新光三越側とを繋ぐ、片側四車線の幹線道路をまたぐ大きな歩道橋。
朝夕の通勤時間帯なんかは人で溢れかえらんばかりの混雑だった。

その歩道橋のど真ん中。ぽっかりと人波が割れる場所があった。
物乞いが真ん中に陣取っていたからだ。
地面に腹這いになって(手も足もほとんどない)、まるでお辞儀をしているように、首をもたげて頭をずっと上下させている。職に就くのもかなわず、慈悲にすがって日々の糧を得ているようだった。

台湾ではとても身近に身体障害者がいる。
健常者と同じように普通に働き、暮らしている方も大勢いらっしゃる。
「普通に」という表現は好きじゃないのだが、日本で日常生活を送っていたときには全く接点がなかったので、正直とても驚いた。
これは「共に生きるという『普通』を学ぶ場がなかった」と言い換えてもいいと思う。
あまりに身近にいるので、来台当初こそカルチャーショックを受けたものだが、いつの間にかそれが当たり前になった。
そういう状態の方こそ「普通」なのだろうと思う。

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中国語:身障者(ㄕㄣ ㄓㄤˋㄓㄜˇ)
日本語:身体障害者

※2017年7月7日に他メディアで書いた記事を加筆・編集しました。


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