2024/08/10 言語思考者と視覚思考者

 今日から日記をつけていこうと思う。その日あったことや頭の中で考えたことを文章化することで自己理解を深め、自分の軸のようなものを形成していくためだ。3日ほど前からやろうと思っていたのだが、いつもの怠け癖が発揮されて今日まで先延ばしされてしまった。そのため今日は数日前にあったことを含めて書くことにする。

 二日前バイト先の先輩とドライブで千葉まで観光に行ったのだが、その日一番印象に残ったのが道中の車内で先輩におススメされて聞いた『ゆる言語学ラジオ』というYouTubeチャンネルのとある回であった。その回では「ビジュアル・シンカー (visual thinker) 」という人たちの存在がテーマになっていた。どうやら人間には「言語思考者」と「視覚思考者=ビジュアル・シンカー」の二つのタイプがいるらしい。文字通り前者は物事を言語を通して考えるタイプ、後者は絵で物事を考えるタイプであり、「左脳型」と「右脳型」のようなものと捉えても問題ないようだ。「視覚思考者」は絵で思考するという特性を持つために、「言語思考者」と比べて社会生活を営む上で不便に感じる局面が多々あるという。例えば学校のペーパーテストがそうだ。国語の文章読解や算数の文章題など、文章から問題の意図をくみ取って情報を整理し、筋道立てて答えを導くという、「視覚思考者」が最も苦手とする作業を必要とするからである。また就活での受け答えもこの例に漏れない。自分がどういう人間かを表現するのに本来の思考方法である「絵」から「言語」に変換しなければならないため、頭の中にイメージしている「絵」をなかなか思うように伝えられず歯がゆい思いをすることになる。

 これらの例から分かるように、現代の社会システムは圧倒的に「言語思考者」の有利なように設計されているのだ。世の中のコミュニケーションは「言語」を通じて行われるものが大部分を占めるため、「絵」を通して思考する「視覚思考者」はそれだけで大きなハンデを背負うことになり、社会に適合することが難しく「劣っている」との評価をされてしまいがちになる。なんと不平等な社会なのだろうか。しかも家庭環境や障害、人種など、目に見えて、或いは事実として分かりやすい不公平と違い、「思考方法」は傍から見ても分からないし理解もされにくいものであるため、理解されにくいということそれ自体がハンデとしての要素を強めている。「視覚思考者」としての苦しみは計り知れないものがあるだろう。

 これを読んでくださっている読者のなかにも「視覚思考者」の方がいることだろう。気休め程度にしかならないだろうが、今まで自分が感じていた「生きづらさ」の正体がこの「視覚思考」であったと納得できれば幾分かすっきりするのではないだろうか。思考方法が違うというだけで、少なくとも人として劣っているというようなことは全くない。この生まれ持った特性を恨みたくなる気持ちもよく分かる。しかし概念を絵でイメージ・表現できたり、絵を絵のまま、映像を映像のまま受け取ったりできる感性は貴重なものだ。身勝手な発言で申し訳ないが、これは自分の個性として割り切り、できることならポジティブに捉えて生きてほしい。

 かくいう私は、今まで意識していなかったものの完全な「言語思考者」だと言える。学校のテストでは教科により得意不得意はあるものの基本良い点は取れていたし、受験での失敗体験はほとんどない。しかし美術や技術の成績はとことん悪く、数学の図形問題や物理もかなり苦手だった。地図を読むのが苦手で自分がどこにいるのかすぐ分からなくなるし、家具の組み立ても設計書とにらめっこしながら数時間かけてようやく完成したと思ったらどこか失敗しているというようなレベルで、絵や図をイメージすることが全くできない人間である。このように自分が「言語思考者」であることに疑いはないのだが、この社会が自分にとって有利だ、適合しやすいなどとは微塵も思ったことが無い。興味ない授業のレポートが書けなくて単位を落としまくるし人間関係の構築が苦手で友達が片手に収まるくらいしかいないしバイトの面接も4連続で落ちたことがある。大学も3年かけて中退した(再受験して現在は二年生)。これはなぜか。恐らく単純に言語化の訓練が足りていないだけなのだろう(あと先延ばし癖)。自分は社会不適合者の側だと思っていたらどうやら適合する素養はあるらしく、ただその努力を著しく怠っていただけという、今まで描いていた自己像が否定される、なんとも目をつむりたくなる結論に至ってしまった。しかし受け入れるしかない。この日記を始めたのは、この言語化の訓練を行うためでもある。長くなったので今日はここまでにしておく。


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