2024/08/11 劣等感の正体

 今日も引き続きこの前バイト先の先輩と行った観光ドライブの際の話をしようと思う。この日は印象に残ったことが多すぎてまだまだ書き足りない。このnoteは一応その日にあったこと考えたことを綴る日記という名目で始めたのだが、実際に当日の出来事について書く日が来るのは果たしていつになるのだろうか。

 さて話を戻すが、この観光ドライブの車内では、先輩と本当に様々な会話を交わした。昨日の日記に書いた「言語思考者」と「視覚思考者」の話から始まり、大学やバイト、中学高校時代や家族のこと、また生意気ながら現在の世界情勢みたいなことについても少し話した。ここまで人と対等に色んな話をしたのはいつぶりだっただろうか。その中で、なにか自分の成長というか、少し前までの自分とは違う自分を実感した会話があった。それは大学のゼミでの人間関係について話した時である。

 私の大学(この先輩も学部は違うが同じ大学)では二年生の後期からゼミが始まるのだが、現在二年生で大学に友達という友達がいない私は、「青春を体験する最後のチャンスなので、ゼミでは何とかうまく人間関係を構築していきたい」、と先輩に切り出した(実際そこまで気負っているわけではないが)。すると先輩は、「自分から積極的に行動を起こして、周りの人間をある程度コントロールできるようになるといい、リーダーシップが取れればその空間を自分の居心地の良いものにできる」とアドバイスしてくれた。その先輩はゼミ長を務めており、他人に合わせるというよりも他人を自分に合わせるリーダー的な立場を好むタイプのようだ。しかしこれを言われた瞬間私の心に浮かんだのは「これは自分の考えとは違うな」という感情であった。そして数秒後には「俺は他人とは対等でありたいし、人を従えたり干渉したりするよりもその人の人間性や感性はできるだけそのまま受け止めたい。だからその考え自体は尊重するし先輩には適しているんだろうけど俺には合わない。」と言い返していた。実際はこんな流暢に喋れてないが、こう言い終えた瞬間、自分自身に少し感動してしまった。読者の方には想像しづらいだろうが、このことは私にとっては本当に快挙なのである。恐らく少し前の自分であれば「あぁ、自分はこんな風にはできないな、先輩は凄いなぁ」と思って劣等感を抱いていたはずである。というか実際数か月前に先輩とご飯を食べに行った時に同じようなことを言われ、肩を落とした記憶がある。それが今や自分の考えを年上の先輩に対して毅然と伝えることができるようになったのだ。こういった人の考えは人の考えとして尊重しつつ、同時に自分の考えもぶつけられるという、自律した個人同士の対等なやり取りはまさに私の理想とするコミュニケーションである。

 ここから思うに、劣等感というものは自分の考えや価値観が明確に定まってないことから来るのではないだろうか。少し前までの私は夢や目標に向かって一途に努力している人や、友達が多く恋愛経験も豊富でサークル活動等に積極的な人などをみるたびに劣等感を憶えていた。しかしそれは自己理解が甘く自分と他人は違うということを割り切れていなかったためだと今では感じる。彼らも、自分とは違う性格・価値観を持ち合わせているだけの同じ普通の人間なのだ。そこに優劣などはなく、共感できない人間や考えに出会ったところで劣等感を抱く必要は微塵もない。学べる部分があればそこは吸収できるなら吸収するくらいの柔軟さは必要かもしれないが、あくまで他人は他人だ。基本的には自分のペースで、自分のやり方で、自分の価値観に従って生きていけばそれで良い。だがやはり人間そう簡単に割り切ることはできない。どうしても人は比較してしまう生き物だし、私も以前より頻度は減ったとはいえ他人と比べて自分を卑下してしまうことがある。自分のアイデンティティを確立してなるべく劣等感を抱かずに済むよう、自分を少しづつ好きになれるようにこのnoteは続けていきたい。

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