VRでも「なにかしなくちゃ」ってなっちゃう話
VRChatにはとにかくやばくてすげー奴がいる。
そして、そんなそこら辺のやばくてすげー奴を遥かに凌駕する雲上人のような人も割とすんなりいる。
Twitterを眺めていれば、その手の人たちの存在は嫌でも目に入ってしまう。
クリエイターによって発信される音楽や動画、イベントのキャストとして活躍する人達の写真、技術者によって提供される目が回るような最新鋭の魔法。
ジリジリ、キリキリと何かが擦り減ってくのが分かる。
居心地のよかった日陰にギラギラとした陽光が差してくるような感覚。
まるで向こうを悪者に仕立てあげたいような言い方だが、そうではない。
彼らは動機はなんであれ、やりたいことをやってるだけ。
ただ、ただただ眩しいのだ。
呪うべくは、なにも出来ない自分とその程度のことで簡単に揺らいでしまう安い自尊心というやつなのかも知れない。
とにかく、ある程度の過剰な自意識を持つ人間は、この世界にいると「自分もなにかしなくちゃ」となるものだと思っている。
何者でもなくていい?
「何者でもなくてもいい」
ホントに、心から、そう思う。
どれだけすごい人がいようと、そういう人達と比べてなにも出来なかろうと、息をしていて良いし、そのままの貴方で間違いなく花丸なのだ。
でも、なぜだろう。どうしてか僕達はこういう優しい言葉に寂しさを覚えてしまうのだ。
「なにもしなくたっていいんだよ、義務じゃないんだから」
こうした言葉は苦痛を取り払う魔法ではなく、
「輝いてる人達」からの戦力外通告
のような意味合いを持っているように感じる。
この胸の焦りは見当違いで、なにもしてなくたって自分は大丈夫…
そう思いたいのに、「自分は輝いている側にはなれない」という事実を言い渡されてるような気がして、そうした励ましの言葉はどうしても飲み込みきれないのである。
なにかをやれても
僕はVR上で音楽活動をしている。
自作曲の発信やライブなど、「何もしてない」と言うと流石に嘘になってしまうくらいの活動はしているつもりだ。
なら何故、こんな根の腐れた文章を書くのだろう。
結局のところ、悩むポイントはどこまで行っても同じだからだ。
不足感から踏み出した一歩はどこまで行っても不足感の壁にぶち当たる。
自分より歌の上手い奴が妬ましい、コミュニケーションが上手い奴が妬ましい、人に頼られる奴が妬ましい、メンタルが強い奴が妬ましい、モテる奴が妬ましい…
未だに僕は自分の居場所がなくなるようなキリキリとした胃痛と戦い続けている。
どこまで行っても同じ。
やっぱり「何かが出来てよう」と「何者かになれてるよう」でも悩んでることは変わらないのだ。
だから一つだけ言えることがあるとすれば、
「なにも出来ない自分がダメな気がするから」という動機を主に何かを始めるのは結果的に同じような苦しみに悩むことになるということ。
よくある話だが、何か活動をやるならば
「それをやることそのものが目的となっている」
のがやはり理想的なのだろう。
人間そう簡単に出来ないのが難しいところだが。
「なにかしなくちゃ」
だからと言って僕はそう思う人の気持ちを否定したくない。
だって、自分が現在進行形でその悩みを抱えているのだから。
「なにもしなくたって良いんだよ」
「何者にもならなくたって良いじゃない」
という、優しくて残酷な言葉に代わる言葉はないのか。
今、この文章を書き出しながらも必死に考えている。
僕は「なにも出来ないことを受け入れられる」なら、本当の意味で「そのままで良い」と言える。
でも、「なにも出来ないことが我慢ならない」のであれば、なにかしらもがくことにも価値があるのかも知れないとも思っている。
人との繋がり中での自分の属性や立ち位置が気になってしまう過剰な自意識の持ち主は、残念ながらなにをしてようと悩んでしまうものだ。
「なにをしてても悩むくらいなら何もしない」
「どうしたって悩むなら何かやった方がいい」
どちらに自身の価値観との合致を感じるかで、選択をすれば良いのだと思う。
大丈夫。
言葉一つで気持ちを改められるほど人間はシンプルには出来てはいない。
だから、悩んでしまうことを悪いと思わず、とことん悩んでみると良いのかもしれない。
悩むのにすら飽きた頃、その時の自分がなにをするかに委ねてみるのも一つの選択であると僕は思う。
VRでも何者にもなれずに悩む貴方に幸あることを。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました
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