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Z世代のクラスメイトたちは過激な環境活動をどう見ているのか

私は今スウェーデンの大学院修士課程に留学している。授業自体もさることながら、20代前半~半ばぐらいのいわゆるZ世代のクラスメイトとの会話から学ぶこともとても多い。中でも彼らがどういう風に世界を見ているのかというのはアラフォーの私とは大きく違う部分があるなあ、と思う。幾つもある違いの中で、特に大陸欧州の子達と最も根源的に違うのは「環境」に対する考え方だ。

留学生活については細々と別途blogに綴っているのだが、そこで書いたドイツとスウェーデンのクラスメイトの世界観を紹介したい。

自分が就職できない、あるいは働いても安定した暮らしを得られず社会の中で取り残されていくリスクよりも、気候変動によって近い将来生活環境が激変することによる影響の方をリアリティのあるリスクとして懸念している。自然災害の増加、食料危機、エネルギー危機、それによって産業構造がガラッと変わって、自分自身が生きる環境が成り立たなくなることに対する恐怖心。だからこそ現状を優先する「逃げ切り世代」に厳しい目を向けているし、構造的に変化しなければ、自分はそういう仕事をしたい、と思っている。

卒業後の進路トークとZ世代クラスメイト達の世界観

ちょうどマライ・メントライン氏のコラムが近しいテーマを扱っていたのだが、その中で「外交や経済以前に「環境」が壊れては元も子もないだろう」と総括されている考え方だ。

ではこういう思考回路を持ったFridays for Future世代の彼/彼女たちが、過激化する気候変動への対策を求める活動についてどう考えているのか、というのが、私自身気になっていた。何度かクラスメイト達とのお茶で話題にしたことがあり、彼らの見解がとても興味深かったので、ここで紹介したいと思う。


はじまりはスープ事件

私が初めてクラスメイトたちに意見を聞いたのは、進学直後の2022年10月14日、ロンドンのナショナル・ギャラリーでゴッホの「ひまわり」にスープをかけられる事件が起きた時。これは日本でも大きく報道されたが、当然欧州では更に大きく報道された。

絵画はガラスで覆われていたため無事だったこともあり、このタイミングでのクラスメイト達の反応は概ね「賞賛はしないけれど、理解はできる」だった。ちなみに話をしたのはスウェーデン人とドイツ人のクラスメイト5人。Fridays for Future世代の年配組で、気候変動は共通して大きな関心事だけれど、実際に生活にどの程度取り入れるかのレベルは個々で多少違う。ヴィーガンで服はセカンドハンドしか買わないという子もいるし、お肉は食べることもあるけれど減らしている、牛は食べない・牛乳は飲まない、ミートボール(スウェーデンのシグネチャーフード)は食べるけど、等できる範囲で実践している子も。2018年、足元のスウェーデンから始まった気候変動に対する生徒たちの訴えが、大きな注目にも関わらず政策的にはドラスティックな変化が起きなかった(と彼/彼女らは考えている)経過を踏まえて、「大人には期待できない」「もっと継続的に話題になる必要がある」という苦い共通認識を持っており、特にドイツのクラスメイト達はその姿勢が顕著だった。

スープ事件で逮捕された環境団体Just Stop Oilのメンバーの1人Phoebe Plummerは、NPRのインタビューに回答し、これまで書面での抗議、デモ、署名等あらゆる手段を講じたが大きくは変わらなかった、2022年4月にJust Stop Oilに参加し色々な活動を行う中で、もっとメディアに注目される必要がある、人々が話題にし、何故こういう活動を行うのか、世間の注意を引くべきだと考えた、と述べている。こういう感覚は、クラスメイト達も共感できる部分を持っていたのだと思う。

一方で手段の正当性と、活動団体の性質については意外にもしっかり見ている。

Extinction RebellionとLetzte Generation

Just Stop Oilもその後過激な活動を重ねているが、更に輪をかけて過激なのが2018年に英国で発足したExtinction Rebellionと、2022年からドイツでの活動範囲と頻度をあげているLetzte Generationだ。特に「最後の世代」と名乗るドイツの環境団体は高速道路に自らをボンドで貼り付けて車両の通行を妨害したり空港の滑走路に侵入して空港機能を麻痺させたり、先日9月17日にはブランデンブルグ門にペンキを噴射する等、この数年でどんどん過激化するパフォーマンスによって波紋を広げている。

こうした活動に対するクラスメイト達の反応は、揃って

「やめて欲しい」
「きちんと処罰されるべき」
「目的の正当性は手段を自動的に正当化しない」

である。少なくとも私が話すクラスメイト達は、彼らが高校生の頃から携わってきた気候変動という看板にプライドもあり、こうした過激な活動が気候変動というアジェンダ全体のイメージと重なり、「変革したくない大人たち」に都合よく利用されることを強く危惧している。

同時に、隠しきれないエリート意識も滲む。クラスメイトは大学院に進学するような子達だ。2018年から始まったFridays for Futureに参加していた「普通の」仲間の生徒たちは、5年間の時を経て、今は社会活動自体からは足を洗っている子も多いそうだ。勿論アジェンダ自体が消えたわけではなく、実際の社会で何かを変えようとしている子達もいるし、研究しようと進学する子達もいるが、とにかく関わり方のフェーズはより地に足のついたものへと変わっている。自分たちの世代がそういうことが出来る、権力を持てる世代になってきた。そういう自然な時間の経過と、出来ることの変化に抗い、単に過激な抗議活動に参加する人々は、自分たちとは違う、というのだ。

彼/彼女らは、こうした過激な活動に参加する人々が、実際には単に社会への不満を発散させる暴力の機会として気候変動を利用している可能性がある、と考えている。あるいはこうした活動が、社会に軋轢を生じさせることで気候変動に関するナラティブをかく乱させようとする人々に利用されていることに気付いていない、あるいは気付いていても、社会的な負の影響に目をつむって不満の発散やパフォーマンスを優先するような人々なのだ、と。スープ事件の時と違って、その後の更なる過激化や世論の変化を踏まえて、そこに共感はあまりない。むしろ断絶を感じる。足を引っ張らないでくれ、と。

「大人たち」への不満

同時に、一緒くたに報道するメディアや、感情的に反応する大人たちにも不満を抱えている。

日本語の報道では十把一絡げに「環境活動団体」や「気候変動団体」と紹介されることが多い。英語でもヘッドラインでは「climate activists(気候アクティビスト)」と紹介されることが多い。ドイツ語も同じだ。特にLetzte Generationについては若い世代が中心となった活動であることが強調されることも多いため、団体の性質上仕方がないとはいえ、世代として一括りにしてストーリーを語らないで欲しい、色々な団体があるのだから、環境活動団体や気候変動団体を一括りにせず、活動のグラデーションにきちんと目を向けて欲しい、と。

コミュニケーションを専攻していることもあってメディア報道のフレーミングに高い関心のあるクラスメイト達なので、ニュースの内容が気候変動そのものよりも、過激な活動と、その被害を中心とした報道になってしまうことにも苦い思いを抱いている。当然ながら報道を受けてSNSでは団体への非難が拡散される。仕方がない側面も多いが、必要以上にフォーカスすることで、気候変動全体に対するナラティブを構造的に悪化させる片棒をメディアが担いでいる、ということだろう。

どうしたら良いと思う?と聞いた答えは、「彼/彼女ら過激なパフォーマンスに必要以上に注目を与えるべきでない、他に沢山ある団体や、取り組みを丁寧に報道すべきである」である。メディアに注目されることを意識しすぎて手段がどんどんエスカレートしていく活動を止めるには、やはりメディアが一旦足を止めることが有効だと思う、と。

ちなみにこういう感覚が広く共有されているかというと、同じ世代でも他の地域出身のクラスメイト達(例えばアメリカやイタリアのクラスメイト)とは異なる。熱心に活動している人に聞いたらまた違う感想があるのだろう。それでも私にとっては確実に声として届いていて、月並みなコメントだが、色々と考えさせられている。

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