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ロシアから亡命したジャーナリストたちと支援者の声

4月26日、所属する大学院の研究科でEU諸国に亡命しているロシア人ジャーナリスト5人と、その支援者2名が登壇するパネルディスカッションがあった。パネル自体は主に大学関係者を対象とした事前登録制イベントだったが、告知は公開されており取材も入っており、広く彼らの置かれた状況を知って欲しい、ということだったので、概要を紹介したい。

・彼らから繰り返されたのがロシアに残る同僚や家族の身の安全への懸念でした。このため、告知有イベントで一部登壇者の名前は公開されてはいるのですが、念のためこの記事では大学・ジャーナリストの名前を匿名のままで書くことにします。
・私はロシア事情に明るくなく、またロシア語もできないため、彼らの話を検証できるほどの現地情勢の知識がありません。従って、これは彼らの話したことを要約しつつも、検証を加えたものではないという前提で読んで頂ければと思います。

ロシアの現状

ジャーナリストA:

  • ロシアの世論調査はもはや信頼できないので世論は掴みにくいが、それでも様々な調査と取材活動を総合しての印象は、色々な意見はあるが、総合して「自分たちが選んだ政治指導者は上手くやっていると思いたい」という意識だ。

  • 西側諸国は、外の世界に対してignorantな人々を相手にしている、ということを認識しなければいけない。1つには政治指導者や権力側は意識的にignorant(無視している)。もう1つは、大半のロシア国民もignorant(無知である、無関心である)。国民のマジョリティは国外はおろか、モスクワはもとより住んでいる州の首都にも行ったことがなく、地元でずっと暮らしている。彼らにとって西側諸国やNATOというのは抽象的過ぎる存在であり、実感を持ちようがない。プーチンのプロパガンダはこういう層に対して非常に有効、何故ならプーチンの説明の方が彼らにとってわかりやすいからだ。

  • ロシアが上向いていた時代を懐かしむ懐古主義がプーチン支持の基盤。90年代以降、ロシア人の生活は豊かになった。それは体制変化や原油価格が上昇したことによるもので、プーチンの政治手腕によるものではないが、その良き時代を経験し、プーチンのおかげだと考える声をプーチンは利用している。停滞した現状を外のせいにしている。

  • また、市民の間には、問題があってもそれは権力者の問題であり、自分達市民は被害者であるから、責められる謂れはないというルサンチマンが蔓延している。自分達の力だけではどうしようもない、何も変えられない(から仕方がない)という考え方が根底にある。

  • 民主主義は、いずれにせよ存在する政治の権力闘争をwindow dressingする(お化粧する)程度のものだと考えている人も多い。特にソ連時代を生きてきた人はその経験が意識の軸になっている。

亡命ジャーナリストの役割

ジャーナリストB:

  • 自分は若者向けのメディアを運営している。23歳、昨年大学を卒業したばかり。欧州の大学に留学していたが、在学時からのジャーナリストとしての活動ゆえに帰国できなくなり、そのまま海外に留まっている。

  • 自分の役割は一言で言えば内と外を繋げること。ロシアに残っている私の世代やその下の世代は、プーチン統治下以外の時代を知らない。このため、何かがおかしいと思っても、他の社会像のイメージや実感がなく、変わること自体が想像ができなかったり、変わることに対して恐怖心がある層が多い。ネットも遮断されており、それ以外の生き方を知らないからだ。この層に対して、彼らに届くような形で少しずつでも外の世界を伝えていく必要がある。

  • 同様に外に暮らす同世代は、今ものすごく肩身が狭く、孤独に生きている。ビザの問題、収入をどうするか、そもそも今後生きているうちに母国に帰って家族に会えるのか等、生活上の課題も多い。どうしてもEUの同世代の子達と自分を比べたりもする。その状態で何の支援もなく暮らすことは精神的にも物理的にも本当に大変。そうした層に対して実践的な情報を提供することと、あなたは一人じゃない、仲間がいると伝え続け、国外のネットワークを維持することがミッション。国際的な連帯が必要。

ジャーナリストC:

  • 自分達はロシアの「窓」だと思っている。自分の所属するメディアは国内に留まっている記者も多い。中の空気は中にいないとわからない。留まっている記者の身の安全を確保しつつ、彼らが取材するリアルを外へ繋ぐことが大切だと思っている。

  • 同時に外のニュースを中に伝える必要もある。自分自身2022年9月までロシアの外に出たことがなかったため、亡命せざるを得なくなり始めて外に暮らし、あまりの違いにショックを受けた。情報は必要。

ジャーナリストD:

  • 我々の役割は情報を伝えること(inform)から、政治的なアジェンダを代表すること(represent political agenda)にシフトしていると考えている。

  • ロシア国内には戦争に反対の人もいるが、この声を公的に政治的に代表する人はもはやいない。しかし本当は存在することを我々はジャーナリストとしての活動から知っている。こうした声を内に対しても外に対しても可視化することが大切。私は現状に対して決して楽観的ではないが、こうした声を10年後に向けて少しでも繋いでいくしかないと思っている。

  • もしロシアを再び民主化できるとしたら、そのキーとなるのは私たち独立メディアと、人権団体の2つだと考えている。

ロシアが「言論の自由」を合法的に「言論の不自由」に移行させたプロセス

支援者A:

  • 自分は元々モスクワの大学でジャーナリズム論、メディア論を教えていた研究者である。国外の研究者との共同研究も活発だった。このため今日の登壇者の中では一番西側の事情を理解しており、状況を客観的に見ることができていると思われるので、ロシアが辿ってきた道の背景を説明したい。

  • 私は2011年にロシアを離れた。その頃までは特に問題はなかった。政権のメディア政策に批判的な本でも自由に執筆・出版できたし、毎年300人ぐらいの生徒に教えていたが、そのカリキュラムはEU諸国の大学で教えていることと殆ど変わりがなかった。

  • 思い返せば兆候は2006-7年頃からあった。国際学会に参加した地方の教授が、帰宅後に警察の訪問を受け、学会のプログラム、参加の目的等を聴取される事案が見られるようになった。しかし当時はあまり気に留めなかった。地方都市だとまだソ連時代の記憶を引きずった警官がいるのかな、と思ったぐらいだった。モスクワで異変を明確に感じるようになったのは2015年以降。それまではロシアと行き来していたが、教育活動や過去の著作を理由として手配がかかったこともあり、以来ロシアには一度も戻っていない。

  • プ―チン政権による言論の弾圧は合法的に、一見民主的なプロセスを経て行われた。周到に準備され計画的に行われたのか、あるいは度々訪れた機会を上手く活用して偶発的に行われたのかは議論があるが、いずれにせよ機会を上手く活用してきたことは間違いない。

  • 振り返れば機会は8つある。
    ①2001年の911テロを契機に、extremismの監視が正当化された。当初は実際に犯罪に繋がる主義主張を対象としていたが、その後この概念が拡張され、体制に反する思想は裁判所の認定さえあればextremismと認定できるようになった。司法の独立がない中では悪用される土壌になった。
    ②ロシアのメディアシステムは2004年までは北欧諸国と同様のシステムであった。その後メディアの創刊や補助金交付にあたっては国の競争的プロセスを経ないと支援を受けられないことになり、国の思想コントロールを許す土壌になった。
    ③犯罪の定義の変更。刑法の変更で犯罪認定の定義が徐々に拡張された。
    ④青少年保護を目的に、裁判所の認定により悪影響があると思われるコンテンツを遮断できるようになった。
    ⑤2012年に制定され、その後改正が重ねられた「外国の代理人」法(通称foreign agent law)。この問題はよく知られている。
    ⑥インターネット主権。サイバーセキュリティ対策の名目でサイバーウォールを構築。緊急時には裁判所の同意なしにコンテンツを遮断できる手段が導入され、これが恒常的に使われるようになった。これを元にFacebookやTwitter等を遮断。
    ⑦一連の通称フェイクニュース法。これはパンデミックが強化の良い機会となった。公衆衛生のためにパニックを先導する偽情報の拡散を禁止するという名目で導入されたが、偽情報の定義は恣意的に運用されている。
    ⑧上記フェイクニュース法がウクライナ侵攻にも適用された。ここにいる多くのジャーナリスト達はこの法により、軍に批判的な言説を拡散し国家に対する反逆を煽動しているという罪がかかり、国外へ脱出することを余儀なくされた。

  • つまり、情報の統制から、「真実」の統制へと移行させたのである。

  • 問題は、これらのどの法も、民主主義を採用する国にも存在する法だということだ。問題は司法の独立がない中で恣意的に悪用され、かつそれが段階的に行われた、ということである。

ジャーナリストD:

  • 10年前はここまでではなかった。デモも出来たし、Navalny氏がモスクワ市長に立候補した際(筆者注:2013年の選挙と思われる)にも相当な得票数があった。

  • 私は大学で非常勤で教えていたが、大学でも変化があった。数年前に大学は政府を支援するという法にサインした(注:具体的な法案の中身は不明)。大学の独自性を唱えて反対する人は辞めざるをえなくなり、それ以来大学も安全な場所ではなくなった。それを機に国外に脱出した人も多い。

亡命後の活動の現状

ジャーナリストE:

  • ウクライナ侵攻後、ロシアにいる間は自身だけでなく家族にとっても身の危険が大きく、とても記事を書ける状況ではなかった。編集部と記者たちを国外に脱出させることを優先し、数ヶ月経って、ようやく書いても安全かもしれない、という気持ちを抱けるようになっている。

  • しかし未だにロシアに家族がいる記者も多いため、書く際にはペンネーム又は匿名(編集部名義)。海外に編集部を置いたことで、ようやく書ける環境が物理的にも精神的にも整ってきた。

支援者B:

  • 自分の団体は某バルト国に亡命ジャーナリストのための拠点を設け、運営している。スタジオ機能や編集室を有し、本格的なジャーナリズムの活動拠点として使うことができる。当初はスウェーデンにあったが、拠点が知られたことにより爆破予告など物理的な攻撃の対象になり、移転した。攻撃は西側からもあった。ロシア人ジャーナリストを支援することはプロパガンダの拡散を支援することである、とジャーナリストを十把一絡げにして攻撃するものであった。

  • 西側メディアや公的機関、大使館とも連携し、記者のビザの取得や国際裁判所とのやりとり、取材活動の資金集め等を行っている。記者は命からがら亡命してきても、報道して書きたいのに滞在ビザの関係で活動が制限されることが多い。特にロシア人へのビザ発給含め制裁は複雑で厳しく、とても支援組織なしに一個人で出来るものではない。また収入減の確保やメンタル面でのケアも必要。西側の理解と地に足の着いた息の長い支援が必要。

ジャーナリストC:

  • 自分は幸い亡命できたが、ロシアに残る家族や同僚を思うと葛藤もある。彼らの身の安全が心配だが、自分には可能な限り彼らの安全を確保する術を取りつつ、報道を続けることしかできない。自分はロシア語しかできないので今必死に英語を学んでいる(注:当日は他の記者が通訳)。ロシアの読者にもだが、なるべく西側の読者にも届いて欲しい。


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