HT

1981生。哲学見習い。

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最近の記事

家事の愚痴とジェンダー

食事の用意、食器洗い、洗濯、買い物、ゴミ出し。1日のうち、どこかの時間帯にまとめて片づけてしまえればよいのだが、家事の場合はそうはいかない。仕事に行かなければならないし、できれば子供たちには出来立てのものを食べさせたい。やるべきことを片づけてしまわないと落ち着かない性分なのに、そういうわけにはいかない。だからいつも薄らぼんやり、次はあれをやらなければと頭の片隅で思いながら別のことをやるので、けっこう疲れる。上達すれば楽になるかもと思っていた頃もあるが、それも限度に達した。あと

    • 語ることと回復③

      語ることによって変わるものはある。それは、出来事が過去になるということだ。 もちろん、語ろうが語るまいが時間はすぎてゆき、現在は過去になる。すべては消え去る。しかし、時間が経過したとしても、それだけで出来事が終わるとは限らない。誰かに虐げられたことでいつまでも気分が落ち込んだままでいれば、少なくとも出来事の余波は現在にまで及んでいるということで、すべてが終わったわけではない。すべての出来事の結果として現在があるのだとしたら、終わるものなど何もないと言うこともできる。 それ

      • 語ることと回復②

        これはニューヨークのワールドトレードセンタービルへのテロ攻撃の直後、まだ右耳からは血を流し、粉塵で塗れた状態だったジョーという男性の語りへの、カロリン・エムケの言葉だ。このときエムケが「語りの混乱」と読んでいるのは、「机の上のコーヒー」である。最初のタワーが崩落する光景、階下へと避難する途中での2度目の攻撃、地上に着くまでの時間が永遠のように感じられたことなど、聞き手が出来事の核心だと感じられるような内容にまざって、淹れたばかりのコーヒーを飲まずに避難したというエピソードが語

        • 語ることと回復①

          心の傷を語ることが回復につながるという話を、ずっと疑わしく思っていた。傷を忘れろ、というのではない。そんなことが不可能なのはわかりきった話だ。語れるようになることで回復するのではなく、回復したから語れるのではないかという単純な話だ。 回復するために、自分の身に起こったこと順序立てて整理する。自分の感じたことを、忠実に言葉にする。きちんと語るということを目的にすると、最初に生じるのはたぶん、自分に語れるように語るという事態だ。きれいな語りにするために、うまく言葉にできないもの

        家事の愚痴とジェンダー

          フリック入力

          スマホでメッセージを打つと、いつも多くの誤字と変換ミスが発生する。それもこれもフリック入力のせいだ。昔懐かしのガラケーではそんなことはなかった。スマホを使い始めてすでに10年以上が経つのに、一向に改善する兆しがない。 誤字に関して言うと、「が」が「ぎ」になることが多い。急いでいて指が流れてしまうのだろう。あまり熱心なTwitter利用者ではないので、週に一度くらいしか投稿しないが、ほぼ毎回これに類した誤字がある。 そして変換ミスだ。これは変換候補の2番目をタップしてしまう

          フリック入力

          はじめに

          誰かから求められたわけでもないのに何かを書くことには、おそらく理由がある。あるいは理由が必要になる。とりわけ自分のことを書く場合には。しかし本当にそうなのだろうか。 子供たちがもっと小さかったころ、迎えに行くとすぐに、その日にあった様々な出来事について、いろいろなことを話してくれた。給食がまずかったこと、お友だちが先生の言うことを聞かなかったこと、お昼寝の時間に眠れなくて退屈だったこと。昼間もずっと多くの人たちと一緒にいたはずなのに、その場に居合わせなかった私に対して、その

          はじめに