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ひとを傷つける耳障りの良いことば

ボイストレーナーの浜渦です。みなさんは「感謝しよう!」「人のせいにするのはやめよう!」この二つの言葉を聴いてどのようなイメージを持つでしょうか。

「とても良い言葉!」「何が悪いの?」って素直に思う「いわゆる良い人」は、曲者揃い(?)のノート作者・読者の方々にはいないかもしれませんね(褒め言葉です)。

一般的に「やさしく聞こえる言葉」とか「美しいと認知されている言葉」ほど使い方を気をつけなければなりません。なぜならそんな一般的にはきれいな、耳障りの良い言葉が苦しんでいる人をさらに追い詰めることが、沢山あるからです。こんなに残酷なことはありませんよね。トーンポリシングの土壌をも生み出してしまいかねないでしょう。

言葉は諸刃の刃

気に入った人には何をやっても前者のようなことを、気に入らない人には後者のようなことを言い続けれ良いわけです。慣習やしきたりなんかを上手く混ぜて…

例えば、頑張っているけどうまくいかない権力者には「ご苦労様」「一生懸命やってくれてありがとう」と言い、頑張っているけどうまくいかない個人には「やり方を見直そう」「人のせいにするのはやめよう」などということが、どれだけ一部の人を囲い込み、一部の人を傷つけるか。

これではまるで、嫁をいじめて、孫は何やっても可愛い、みたいなもの。

問題は社会の根底に潜む問題はまるで無視しているということです。いや、これも「社会のせいにするのはやめよう」という耳障りの良い言葉で排除されそうですが…。

アバタもエクボになってしまうと、言葉はその魂を失ってしまうように思います。

その言葉の意味は、知識からか哲学からか

もちろん、この文章を読んで不快だ!って人もいるでしょう。では何に根ざして考えるべきか。それはやはり哲学的思考だと思います。

言葉の意味を辞書的に一般的に認知するのではなく、普段から世を見渡し、どんな意見も見逃さず、自分とは何かを追求しているうちに「ああ、この気持ちはなんだろう…ああ、この相手に対する心から思う、ありがたい、こんな気持ちを感謝と名付けよう」そういうところに言霊の本来の意味が込められているように思うのですが。

声も言葉の辞書的な意味も結果。大切なのはプロセス

言葉の持つイメージがマイナスなものは、それが深い考えや正義に根ざしていても排除され、プラスなものは、その辞書的な意味だけが先行して使われるとしたら。いよいよ国家の危機ではないでしょうか。

私はボイストレーナーですが、声は結果です。今でた声がなぜ生まれたか、それを考えていきます。例えば、声は呼吸から、その呼吸は体から、体をコントロールするものは・・・それをせずに結果だけを耳障りの良い声にしては、表現は死んでしまうのです。

いまボイトレ業界も「うまく聞こえる」「カラオケの点数」という結果だけを求め、中身のうすい、つまりその人でなければならない理由のない歌や表現を生み出すものが溢れています。それがウケるからでしょうが、それは個人を殺し、何かに合わせるという、人類にとって自殺行為のように思えるのです。


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