普通の日本人ってなんだ
ボイストレーナーの浜渦です。表現を追求するなんて呑気なしんどいことを毎日やっています。そんな中で普通の声、普段の声の違いについて触れることもあれば、個性的と人間的について考えることもあります。そんな観点から世の中を見る、変人の戯言ですが、ひっそりと普通について書きたいと思います。
普通を名乗る
「普通の日本人」ツイッターを見ているとわざわざハンドルネームに括弧書きで付け足してあったります。普通の日本人ってなんだ?自分で言わなきゃアイデンティティが保てないのか?そもそも普通でいいの?誰とも似ていない自分なのに…色々疑問が湧きます。
一見異常に見える人たち
『国家を信じるということはもうなくなりました。終戦後は、「何だ、人間ってこんなにインチキなんだ」とも思いました。戦争中に私をぶん殴ったような愛国者が、みんなたちまち敗戦後は「民主主義者」になっていた。学校の先生を含めて、みんな大人たちですよ。基本的に本当に人間というのは信用できないんだな、と思いましたね。特に大声で叫んでいるヤツは。』半藤一利
この一見異常にみえる人たちが、つまり私たちが日本人の普通なのでしょう。山岳ベース事件や浅間山荘事件を起こした新左翼の青年達も「どこにでもいる全く普通の青年達」だったことが特徴といえば特徴。特別でない人間が特別なことに巻き込まれ、いや自らを巻き込んでいく。
戦前戦争礼賛愛国者→戦後平和主義者→再び軍備増強を唱え→安保闘争に賛成し→再び、いや三度愛国者に…なんて器用な人もいたようですが、別に珍しいことでもないように思います。
その都度その都度、大きな社会の波や、声、またすぐ近くに運命的になる環境に巻かれていくのが「普通」なのだとしたら。結局どのセクションが問題という以前に、人間がアカンわけなんです。
ちょっとそろそろ真剣に考えたほうがいいかもしれません。学生運動に身を投じた連中も、今の保守的な若者も、行動という結果の内容はまるで違っても、何も変わらないということを。それがどういう事かということを。
もう遅いかもしれないし、考えるのをやめたくなりますけれども。
当時の普通から学ぼう
当時の人間を「俺たちは違う」とただ批判せず、そこから何を学び反省できるかだと思うのです…俺たちも何も変わらない危うい人間であると肝に銘じながら…
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