【下積み時代①】はじめてのコーラー

【下積み時代】と銘打ってはいるものの、そもそも私はまだ下積みである。しかし他に適当な表現も思いつかなかったため、便宜上PDCアジア公認コーラーまでの道のりを「下積み時代」と名付けることとする。

それはさておき、私のコーラーデビューは巣鴨のマンスリートーナメントだった。
所属するリーグのチームメイトが企画するマンスリートーナメントで、毎回コーラーをしている入澤さん(後の私の師匠のひとり)が不在だったため、「漢君英語できるし、やってごらん!」と私に白羽の矢が立ったのだが、結論から言うと、このときの私は酷いものだった。

まず、計算が追い付かない。
更に、アレンジがわからず、選手が上がったことに気が付けない。
おまけに、コーラーの定型文を知らなかった私は、試合中の点数をすべて英語で読み上げているにもかかわらず、選手がダブルを決めると突如「三本目!」と日本語で叫びだす始末。

身内のマンスリーということで皆さん笑って許してくださったが、私のコーラーデビューは緊張と恥ずかしさ、悔しさでいっぱいだった。
それでも、下手の横好きの自分には到底真似できないレベルの高い試合(後の日本代表同士の決勝戦だった)を間近で見れる興奮や、その試合に自分が携わることができる喜びが忘れられなかった。
主催者の厚意もあり、翌月からはコンソレーション決勝でコーラーを務めさせてもらえるようになった。
これはPDCアジアが発足する前の出来事であり、この時は自分がコーラーとしてのキャリアを歩むことになるとは微塵も思っていなかった。

転機が訪れたのは、日本人初のPDCアジア公認コーラーとなった入澤さんをはじめとする国内の有名コーラーの方々から心構えや技術について教わり、私がコンソレーション決勝でコーラーを務める習慣が始まってから数か月が経った頃だった。
その日、会場に見慣れない男性が訪れた。恰幅の良い、豪快な笑顔が特徴的な男性は、私がコールした試合が終わった後に「君、名前なんていうの?」「ちょっとあっちで話しできる?」と私を部屋の隅に招いてきた。
このときの私は知る由もなかったが、この男性はダーツ連盟の理事で、話の内容としては「君の英語はとても素晴らしい。小さなハウスで終わらせるには勿体ない。ジャパンオープンの舞台でコールする気はないか」というものだった。
急なオファーに驚いたが、断る理由がなかったので二つ返事で了承し、その場は解散した。
余談だが、マンスリー参加者の皆さんは我々があまりにも真剣に話し込んでいたため、私がなにか粗相をしでかして怒られているのではないか…と心配していたらしい。
そんな心優しい皆さんや、勧誘してくれた理事の期待を背負って、私は初めてジャパンオープンの舞台に足を踏み入れた。

(続く

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