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ダブルブッキングはしてはいけない。

「おたくから予約が入っているニュージーランドからの団体さん、まだ来ないんですけど、どうなっているんですかねぇ。チェックインの時間はだいぶ過ぎてるんですけどぉ?」

電話の向こうで、旅館の女将が相当イライラしているのが、声の調子でわかった。私は全身の血がサーっと引いていく音が聞こえた。

もう何十年も前のことだが、よく覚えている。旅行会社に入社して間もないころのことだった。

いくつか担当していたツアーの一つにニュージーランドからの団体客のツアーがあった。確か農業高校の学生で、日本の農業について学ぶのが、来日の目的だった。

宿泊の予約と移動の乗り物の予約などを担当したが、とにかく変更が多い団体だった。あまりの変更の多さに、途中から私は不要になった宿泊のキャンセルをせずそのままにしておいた。そうしないと、次の変更に対応できないと勝手に判断したからだった。最終段階になったら、キャンセルをすれば、大丈夫だと思ったのだ。

だが、それがいけなかった。結局、キャンセルをし忘れてしまった。

「申し訳ございません」

「えっ?来ない?どうしてくれるんですか?板長も部屋係りの者たちも、まだか、まだかと何度も外に出てお客さんがくるのを待ってたんですよ!!」

受話器を30センチくらい耳から話しても聞き取れる音量で女将は文句を言いけた。当然だ。何を言われても仕方がない。悪いのは私だ。

その日、私は家に帰る前に一冊の本を買った。そして、重い足取りで家路についた。

本のタイトルは、『手紙の書き方』。お詫びの手紙を書くためだった。手紙を書く前に目を閉じて、旅館の人たちの様子を想像してみた。外国のお客さんを迎えるために、調理場の人、部屋係りの人、フロントの人、みんなドキドキしながら待っていたはずだ。料理もほぼ出来上がっていて、あとはお客さんの到着を待つばかりだったのに、何分待っても来ない。

ひどいことをしてしまったと、心の底から思った。本当に申し訳ないと思った。お金を払って済むことではなかった。直接謝りに行きたかったが、遠すぎてそうすることもできなかった。その気持ちを素直に手紙に書いた。何時間もかけて、納得がいくまで何枚も書き直して、やっと書き上げた。ほとんど、寝ていなかった。翌日速達でお詫びの手紙を出した。

「まあ、これからは気をつけて。頼みますね。また、良かったらお客さん、紹介してね」

違う人かと思うほど、女将は優しく、明るい声で電話をしてきた。

失敗からたくさんのことを学んだ。自分を過信しないこと。丁寧に仕事をすること。勝手な判断をせず、上司に相談して指示をもらうこと。

部内では、先輩たちが色んなツアーの利益を削って、新人の穴を埋めてくれた。感謝しかなかった。

謝罪を受け入れ、許してくれた女将にも感謝している。

何十年経ってもあの恐ろしい電話の声は忘れられないが。


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