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ひめゆりの足跡をたどって。

最近沖縄の話が多いですが、今回も沖縄の話です。
この前、百子さんのひめゆり学徒隊のお話を書きました。今、沖縄に行ってひめゆりの足跡をたどることはできないので、わたしが見てきたものを紹介します。

1945年3月23日に米軍は沖縄上陸作戦を開始し、同時にひめゆり学徒たちは南風原にある沖縄陸軍病院に配属されました。病院とはいっても、大きな人工の壕のことで、動員当初はまだ出来上がっておらず、壕を掘り進める作業も彼女たちが行っていました。

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沖縄陸軍病院の20号は現在見学することができます。わたしが訪れたのは1月の沖縄でも寒い時期でした。ですが、足を踏み入れた瞬間、熱気が体を包みます。ものすごく蒸し暑いです。この壕が実際に使われたいたのは3月下旬から5月半ばまで。それを考えると、当時はもっと蒸し暑い中で作業をしていたんだと思います。

南風原壕は高さ180cm、幅180cmの人工壕です。その中に幅90cmの二段ベッドがぎっしりと並ぶのです。実際にベッドは置いてありませんが、それでなくても圧迫感がすごいです。ここにベッドがあったら、ひめゆり学徒が休む場所なんてありません。

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これは南風原文化センターにおいてある模型なので明るくてしっかりとしたベッドになっていますが、こんなイメージです。これで真っ暗なんですよ。

ガイドの方と2人で壕に入りましたが、怖くて仕方なかったです。四方八方から何かにまとわりつかれるようで、「気持ち悪い」と表現することが正しいかは分かりませんが、そんな感覚でした。壕から外に出た瞬間の心地よい風の感触は忘れることができません。

また、近年の技術の発展んで、当時の壕の中ににおいを再現する香りができたそうです。今もそれが嗅げるかわかりませんが、一息吸っただけで吐き気がするようなにおいです。血と排泄物と腐敗した肉のにおいが混ざり合って、今までに嗅いだことのないにおいでした。生き残ったひめゆり学徒によれば、このにおいよりもっと酷かったそう。

 想像してみてください。
こんな悪臭がただよう壕の中で、物資もないなか、必死に看護をし、命をかけて食べ物を手に入れ、外では永遠に艦砲射撃の音が鳴りやまず、それでも高校生くらいの女の子たちが必死に働いていました。わたしには到底できないこと、それが沖縄の戦争です。

ガイドを頼めば誰でも入れますので、今日のある方はぜひ。

次に訪れたのは、糸数アブチラガマ。
こちらは1945年の4月28日に16名の生徒が配置換えのために移った場所です。南風原から7キロ離れており、徒歩で向かいました。糸数はガマと呼ばれる自然洞窟です。全長270メートルあり、常時600人の負傷兵を収容していました。

この場所は糸数に住んでいた住民が使っていたガマでしたが、いきなり軍隊の管轄になり、もともといた住民は奥へ奥へと押し込まれ、外に出るのも困難な状況になったといいます。

糸数分室に配属になったひめゆりたちは、このガマにきたとき、とっても喜んだそうです。南風原壕よりはるかに広い敷地内、自然壕なので水が湧きだしていたり、かまどが壕の中にあるので、死ぬ思いでご飯を炊く必要もなく、空気も澄んでいておいしい。年間を通して17度前後の気温なので、南風原壕より少しは涼しいんです。何より来た当初は電気が通っていたので明るかったんです。わたしでさえ南風原壕と比べると、糸数ガマのほうがマシだと思いました。

でも、一瞬でここはまた地獄になります。ひめゆり学徒たちが来てからすぐに、日本兵によって電気器具が持って行かれ、ろうそくのかすかな明かりを頼りに仕事をしなければいけなくなりました。次から次へと運び込まれてくる負傷兵の介護をするのは、たった数名のひめゆり学徒たちです。端から端までの包帯交換にはすごく時間がかかりました。

ガマの中にあった炊事場は、煙が漏れて米兵に気付かれると、また外へご飯を炊きに行かなければいけなくなりました。人口壕とは違って自然壕だから、足元も悪いです。排泄物を抱えて歩いて、滑って頭からそれを浴びた人もたくさんいました。しかし、1945年5月25日の南部搬退命令によって、ここを去ることになります。もちろん移動できるのは動ける兵士のみです。

重傷を負った兵士は置き去りにされました。ガマの奥の方に、暗く広い場所があって、そこは重症患者が寝かされていたようです。ほとんど助かる見込みのない患者ばかりだったので、手当もあまりしてあげられなかったそう。そこにいた人たちは撤退命令が下って、仲間たち去り、明かりも消えて何も見えない真っ暗の中で何を思っていたんだろう。

その場所での生存者は0名です。みんな真っ暗の闇の中、亡くなっていきました。その後、残された負傷兵と住民は何度も米兵の攻撃を受けましたが、8月22日の米兵の降伏勧告に従って、ガマからでました。8月22日なんて日本が降伏をした8月15日から過ぎているし、何より沖縄戦が終結したといわれる6月23日をはるかに過ぎています。沖縄の住民はずっと戦っていたんです。

こちらもガイドをしてくれます。ぜひ自然のガマにも行ってみてください。

最後に訪れたのは荒崎海岸。

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ひめゆり学徒、沖縄戦終結の地。ひめゆり学徒はさまざまな場所で戦争の終わりを迎えますが、荒崎海岸はその一つです。

ここ、荒崎海岸まで逃げてきたひめゆり学徒たちは、このごつごつした海岸を艦砲射撃が降り注ぐ中、裸足で夢中で逃げ惑ったそうです。とても裸足歩けるような場所じゃないけど、きっとそれどころじゃなかったんでしょうね。

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この場所の近くにひめゆりのエンブレムが落ちていたそうで、今では慰霊碑が建てられています。

戦争に男女の区別はないけれど、高校生の女の子が経験していいようなことではありません。でも、話を聞いたり、資料館を訪れて想像してみることはとても大切なことだと思うんです。もちろん、想像なんてしきれないほどの辛くて悲しいことなんだけど、それでも想像してみるんです。もし自分だったらって、もし自分の大切な人が隣で死んでしまったらって。そしたら、戦争なんて絶対にしてはいけないってわかるし、もう二度と人を殺さないためには何が出来るかを考えるようになれます。そうやって、ひめゆりの女の子たちが経験したことを繋いでいきたい。繋いでいかないといけないんです。


 

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