ⅵスティーブ・ジョブズの誕生からアップル復活まで⑧
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創業者ジョブズとマッキントッシュの生みの親ラスキン
IBMの個人向け市場への参入表明で猛追を受けることになった1981年、当時のアップルコンピュータ内では複数の開発チームが並走していました。
ウォズ率いる個人向けAPPLE II(8bit)の改良、ジョブズをチームリーダーにスタートした企業向けコンピュータ市場の開拓を目指したAppleⅢ(8bit)開発チーム。
同じく企業向けコンピュータとしてジョブズが主導で行っていたLisaプロジェクト(16bit)。
そしてApple II向けのソフトウェア(BASIC)開発会社を買収して取り込んだジェフ・ラスキン(下記画像)が開発していた廉価な価格帯の個人向けコンピュータ”Macintosh”…
既にAppleⅢとLisaが商業的失敗に陥っている中でアップルコンピュータは売上の70%を占めるAppleⅡのマイナーチェンジだけではじり貧となることもあり、次世代の個人向けコンピュータとしてマッキントッシュ開発チームへ未来を委ねていました。
しかしマッキントッシュ開発責任者のラスキンと目指すべきコンセプトで決裂。Lisaでの失敗を踏まえ、アップルコンピュータが目指すべきコンピュータのビジョンを掲げるジョブズに対して風当たりも強くなっていきます。
そしてまるで自分を失敗に追いこんだLisaプロジェクトを見返さんとするように、初期のマッキントッシュ開発責任者ラスキンの目指した「個人でも買え、世間にあまねく普及するコンパクトなコンピュータ」というコンセプト(販売目標価格1,000ドル以下)から、ジョブズのこだわるコンピュータ路線への大幅に変更が加わります。
ラスキンは最終的にマークラやジョブズの引き留めを振り切ってアップルコンピュータを退職。
今や世界のコンピュータ市場を二分するもう一つの市場、経済成長でアメリカに追いつこうとしていた日本に渡り、日本企業で自身の考える1,000ドル以下の個人向けコンピュータの開発を追求することになります。
そしてジョブズが開発責任者となり、作り上げたマッキントッシュの販売価格は高騰し販売時点で2,495ドルとなり、1984年1月24日に発表されました。
マッキントッシュ開発チームの人々
ジョブズはプロジェクトを成功させるためにアップルコンピュータに、またマックチームに優秀なエンジニアをあの手この手で引き込みました。
例えば他社で働いていたラスキンの教え子ビル・アトキンソンへ払い戻し不可の片道航空券を送りアップルコンピュータへ招きます。
ビル・アトキンソンはLisaプロジェクト、そしてマッキントッシュ開発プロジェクトに携わりアップル製の初期型マウスやQuickDraw(初期の描画ソフト)、HyperCard、MacPaint(Mac上のペイントソフト)などを開発することになります。
ジョブズは知財の宝庫だったゼロックスのPARC(パロアルト研究所)へ再び見学を申し入れ、半ば強引にアトキンソンらにGUIの実装のアイディアを与えます。(事故から復帰したウォズはAppleⅡの開発に戻るが、社内でジョブズとの会話は以前よりも大きく減っていった)
またジョブズはAppleⅡ開発チームにいたアンディ・ハーツフェルドを「君は優秀か?」と質問して、YESと答えるとAppleⅡチームからマックチームに即日編入させてしまいます。
開発中のプログラムがキリの良いところまでと口を開くと…作業中のコンピュータの電源を引っ込抜き*、バックアップもさせないまま異動を命じます。
*ダメ、絶対!コンピュータでやっちゃいけないやつ!((+_+))
アンディ・ハーツフェルドはMacのOS開発や様々なユーザーインターフェイス開発に従事し、1983年までアップルコンピュータに在職。後にGoogleでSNSサービスGoogle+のサークル機能や写真管理アプリPicasaの設計、Googleフォトの画像エディターなどを担当することになります。
「海軍に入るより、海賊であろう」
1981年、マッキントッシュチームが拠点を構えたテキサコ・タワーの屋上にはチームを鼓舞するためにチームメンバーのスティーブ・キャップス、およびスーザン・ケアによって作られた”シリコンバレーの海賊旗”が掲げられることになります。
マッキントッシュチームは週80時間労働が基本という超ブラックな職場でした。一般的なサラリーマンの労働が仮に9時~18時で1日8時間労働・1時間休憩であることを考えるとそれが如何にブラックかが想像できるでしょう。
タイトなスケジュールの中で開発を続ける中で、ジョブズは開発スタッフに向けて数々の言葉を贈り、奮い立たせました。
「真の芸術家船」
「1986年までにMacは本の中に」*
*ミニマリストとも呼べるジョブズはマックのサイズを電話帳の大きさを上限に決めた時のエピソード。
そして「海軍に入るより、海賊であれ」。
これに由来して彼ら彼女らは真っ黒の旗にAppleComputerのアイコン入りのドクロをかたどったシリコンバレーの海賊旗を掲げます。
規律を重んじ、安全安心な場所から指示・指令に出して従う海軍(サラリーマン)ではなく、今日命を落とすかもしれないという危機感や命の喜びを噛み締めよ…
自分たちがやっていることは命を賭ける価値のある事、誰もやろうとしなかったこと。宇宙に衝撃を与えるようなことをやろう…
死を忘れるなという海賊の死生観(メメントモリ)は極限状態のマックチームと共通するものがあったのかもしれません。
スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの共存関係
スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツ。二人の同時代に生まれた天才たちはそれぞれ西海岸の陽気なシリコンバレーと東海岸の裕福な家庭で生まれたエリートというイメージからライバルとして語られることが少なくありません。
確かにそのような一面があったことは事実かもしれませんが、ビル・ゲイツはAPPLEⅡ向け表計算ソフトMicrosoft Multiplanを販売。
APPLEⅡの普及にも大きく貢献をしていました。このExcelの前身となったソフトウェアで1982年に発売開始されると元祖のVisiCalcが他PCへの移植ができなかったことを背景に移植可能なソフトウェアとしてアップルコンピュータと共に成長、躍進をしていきます。
そしてスティーブ・ジョブズはマッキントッシュ開発においてもビル・ゲイツに呼びかけました。
そしてマッキントッシュのソフトウェア開発、つまりGUIを用いたアーキテクチャーの隅々まで理解したビル・ゲイツはマッキントッシュの発売の前年1983年にIBMから登場したIBMからLotus 1-2-3(当時世界で最も売れたソフトウェア)が発売され、大打撃を受けていました。
そしてこれに対抗する形でMicrosoft Multiplanを大改良してMicrosoft Excelが1989年に誕生をすることになり、同社を代表する大ヒットアプリケーションとなります。
「現実歪曲フィールド」とマッキントッシュ誕生
有名な話ですが、ジョブズは他人を動かす能力に長けていました。(少し強引どころかかなりブラックな職場という話ですが)
ジョブズを知る職場の人たちはこれを「現実歪曲フィールド」と呼び、無茶苦茶なジョブズの言い分を皮肉りました。
ジョブズはカリスマか、奇人・変人か。手に入れたい目的のためならどのような現実さえも歪めてしまう思い込みは不遜にも車にナンバープレートをつけなかったり、わざわざ障碍者スペースに駐車をしたりと既存のルールを疑うことを続けていました。
スタッフを叱責。罵倒したアイディアも朝令暮改。
スタッフはやがて”ローパスフィルター概念”が提唱され、ジョブズの言い分を翻訳するようになりました。
またマックチームは「ジョブズによく立ち向かったで賞」を設けて、ジョブズに立ち向かった人を讃えるようになります。※
※外資系企業などでは社内やオフィス内で盛り上がるための独自の表彰制度を設けて運営をする文化や習慣がある。
ジョブズの口にする「くだらない」「クソみたいだ」という悪態は、「これが本当にベストなのか説明しろ」とローパスフィルターを介すと翻訳されるものだと彼らは語ります。
最初は皮肉として周囲が言い始めた「現実歪曲フィールド」はやがて、ジョブズのストイックで、理想を追求するための姿勢であり、彼自身の生き方・哲学のように語られるようになっていきます。
多くのスタッフが関わり、こだわりにこだわり続けたマッキントッシュの開発は難航を極めました。
何度もシステムからパソコンの外装。
ファイルを削除した後のゴミ箱に、ゴミが入っているようなアニメーションにワザワザ変更をしたり…(視覚的に分かりやすいですが、それまで誰もゴミ箱に2種類のアニメーションアイコンを使おうなどと考えもしなかった)
果ては開封をしたらあとはゴミ捨て場に行くだけのパッケージが開けた時、取り出した時にどうなるかにまでこだわり続けました。
そしてデザインには東洋の禅、日本の仏教、ポルシェやベンツやアート作品など世界に溢れるプロダクトデザインからユーザーの感性をインスパイアするものが凝縮、洗練されていきました。
そしてようやくマッキントッシュの試作機(ドラフト機)が完成をした日、最後まで生き残ったマッキントッシュ開発チームのメンバーが呼び出され、一人ずつある製図用紙にサインをしました。
コンピュータはアート*であると、彼は考えていたのです。
(初代マッキントッシュの初期モデルのケース内装に描かれた開発者たちのサイン。)
*サイエンスとアート。神が生み出したもの、自然について考えることがサイエンス。人が生み出したもの、作り出すものをアートと分類する欧米教育の考え方。日本における文系理系のような教科単位での考え方ではない。
巨大帝国IBMへの反旗を翻したCM『1984』
1984年1月22日、アップルコンピュータはマッキントッシュの発売に向けて『1984』(英国:ジョージ・オーウェル原作1949年刊行)をモチーフに、『ブレイドランナー』(1982)で大ヒットを飛ばしたばかりのリドリー・スコット(1937-)を監督としたCMを展開。
放送時間帯は全米の視聴者が注目するスーパーボウルの試合のハーフタイム直後に行われ、約9,000万人が視聴したとされています。
具体的な商品やサービスを説明しないCMは広告史の中での傑作と今日では評価されています。
内容はいわゆるディストピア(ユートピアの反対)で、全体主義の果てに思考を奪われた多くの人々がビックブラザーによって支配されている世界。
そこに斧を持った女性が現れ、投げ込んだ斧がスクリーンを破壊して世界(人々)が目覚めるというもの…
コンピュータ業界の巨人IBMをビックブラザーに喩え、また当時冷戦と呼ばれた世界初の社会主義国家ソビエト連邦と労働者の在り方を暗喩していると考えられる、その閉塞した世界を開放する主人公をアップルコンピュータ(アメリカ)として描いたものでした。
初代マッキントッシュ発表、そして…。
そして大々的に発表された初代マッキントッシュ。
まだ世の中の殆どのコンピュータが専門的に学んだコマンド入力を必要としていた時代に、今日のパーソナルコンピュータの基本となる実用性と操作性を備えて発表されました。
発表当時の様子がこちら。
若き日のジョブズのプレゼンテーション、そして沸き立つ歓声にしたり顔で喜びを噛み締める様子を是非お楽しみください。(できればコメント付きで)
(乗り遅れた人々のためにマッキントッシュとはどんなものかを紹介しよう)
Motorola CPU8MHz
メモリー128KB
販売価格2,495㌦(約66万円)
しかしマッキントッシュが発売されたその年、先進的なマッキントッシュの操作性や機能性は当時の熱狂的なアップルコンピュータファンや一部の人たちに受け入れられたに留まりました。
全く新しいコンピュータであるマッキントッシュに対応するソフトウェアが殆どなかったのです。
そしてアップルコンピュータの保守的な経営陣は既に売上の大部分を上げ、ソフトウエアも普及しているAPPLEⅡにマーケティング予算を使い続ける事から抜け出せませんでした。
そして同年に発売されたIBM互換機が市場では圧倒的に支持される結果に。
Intel CPU 6MHz
メモリー256KB
販売価格3,995㌦(約106万円)
しかも今度は販売価格では買っていたはずなのに…。
そして米国消費最大のクリスマス商戦***でもIBMに完敗するとアップルコンピュータは過剰在庫を抱え、四半期で初の赤字に転落。
***米国GDPの約7割(日本は56%)を占める個人消費。小売業においては年間売上の約20%は11月下旬(感謝祭,サンクス・ギビングディの翌日にあたる日に始まるブラックフライデー)~クリスマスまでに稼ぐ。
IBM-PCはその後のデスクトップ型コンピュータの事実上の標準規格として君臨。
アップルコンピュータは全従業員の約20%を解雇して経営立て直しを測りますが、状態はすぐには改善しませんでした。
悪いことというのは重なるもので経営不振の時期に、盟友ウォズは売上の約70%を占めるAPPLEⅡではなく、ジョブズとマックを優遇しすぎているとアップルの経営方針に対して反発して退職。
従業員の士気も下がり、やがて経営の混乱はジョブズであると考えたスカリーはジョブズをマックチームのリーダーからの辞任を勧告。
そして二人の溝は埋まらないまま1985年5月31日、スカリーとジョブズのどちらがアップルコンピュータの経営者にふさわしいかの役員投票が行われました。
上場企業での経営者経験のあるスカリーの根回しは周到でした。ジョブズをマックチームから外す時には既に周囲の役員たちとの話し合いがされていました。
創業者の1人とはいえ、当時まだ経営経験の殆どないジョブズにとっては目の前に広がったのは兄のように慕っていたスカリーを支持すると挙手された手の光景。
この投票により彼は何の経営権も持たない、閑職…名ばかりの会長職に追いやられ、自身が立ち上げた会社の経営から追放されてしまいました。
スティーブ・ジョブズ30歳の時の出来事でした。
>⑦に続く
マンガ①「彼らの足跡」
本編で登場してきた人物たちのその後や果たした足跡をピックアップ。
マンガ②「ジョブズの交渉術に学ぶ」
本編とはほぼ全く関係がありません。
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