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ドイツリートを聴こう

さわやかな5月です。自粛生活のストレスがたまる毎日でもありますが、戸外を散歩すると、新緑や花々の美しさに心がいくらか軽やかになりますね。さてクラシック音楽でいえば、5月はドイツリートの季節です。しばし歌とピアノのすてきな音楽に耳を傾けてみませんか。

まず、そもそもドイツリートって何?という方のために…。ドイツリートとは「ドイツ歌曲」、かみくだいて言えば「ドイツ語の詩に曲づけした歌曲」です。主に、18世紀後半以降に書かれた、ピアノの伴奏をともなう歌曲をさして言います。代表的な作曲家としては、シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、R.シュトラウスなど。詩人は、ゲーテ、ハイネ、アイヒェンドルフ、リュッケルト、メーリケなど。…まだまだたくさんいますよ。こうカタカナの名が並ぶとなんだか難しそうなモノにも見えてきますが、大丈夫!要は「うた」なんです。

私は10代の終わり頃このドイツリートの世界に出会い、夢中になりました。当時、芸大の楽理科というところに入って、民族音楽学の授業でインディアンの音楽聴いたり、ガムラン聴いたり…とカルチャーショック連続の学生生活を送っていたのですが、大学1年の秋に声楽科のテノールの方に頼まれてピアノ伴奏を引き受けたのです。それがシューマンの歌曲集《詩人の恋》作品48でした。それまでシューマンはピアノ曲で知ってはいたけれど、私にはなんだか少し「わかりにくい」作曲家でした(ショパンのほうがずっと素敵だと…)。ただ、伴奏を引き受けたからには必至で勉強しました。その声楽科の方から参考に2種類の録音を送って頂いたのですが、ペーター・シュライアーとフリッツ・ヴンダーリヒの歌う演奏でした。シュライアーの端正で知的な歌い方に対し、なめらかなベルカントのようなヴンダーリヒの歌声。どちらも甲乙つけがたく何度も何度も聴いたものです。

当時ドイツ語は勉強し始めたばかりでしたから、わからないことだらけでしたが、歌い手の方に教えて頂きながらとにかくピアノを弾いていきました。そのとき私は、歌詞を理解しながら弾くと、なぜこの部分でこういう和音になるのか、なぜここに休符があるのか、なぜこう強弱やテンポ変化の指示があるのか…譜面上の色々なことが徐々に読み解けてくるような気がしたのです。すべては詩から派生している…。それまでは「音」の塊でしかなかった私のピアノ音楽の世界が、詩のおかげで、色彩や季節感や、あるいはとてつもない感情に結びついている広がりのある世界に導かれたようなのです。これは10代の私にとって、とても大きな体験でした。それからの私には、シューマンの歌曲だけでなく、それまで「わかりにくい」と思っていたピアノ曲すらが、急に手に取るように目にみえる、心に響く音楽となっていきました。結局、私は大学時代にシューマン研究を志したのみならず、リートが歌いたい一心で声楽を始め、歌手として演奏するようにもなり、現在に至っています。

もちろん歌曲は「うた」なので、難しいことは考えず、純粋に声や旋律の美しさを楽しんで聴いて全然かまわないのですが、詩を理解して聴くと感動が深まるばかりか、純粋な器楽作品を聴いたり演奏したりする際の助けにもなります。次元が広がる…とでもいいましょうか。よく、楽器の演奏者が先生から「歌を聴きなさい、勉強しなさい」と言われることがありますが、これは呼吸や歌ごころを学ぶためだけではないのです。詩的なものをイメージする力を養うと、演奏が生き生きと変わってくることがあるのです。これは特に19世紀ロマン派の音楽の場合、とても大事なことだと私は思います。

さて、冒頭で「5月はドイツリートの季節」と書きましたが…、実際ドイツリートの世界では、歌詞に5月が出てくる曲がけっこう目立つんです。ヨーロッパの冬は長く厳しく、春がなかなか来ない…。東京あたりだと4月かもしれませんが、ヨーロッパでは5月が本当の春なのです。待ち遠しい春だけに、その喜びはひとしお。モーツァルトの歌曲〈春への憧れ Sehnsucht nach dem Frühling〉KV596 では、長い冬にうんざりしてしまった子どもたちが、5月よ早く来ておくれよ!と呼びかけています。スミレも、ナイチンゲールも、カッコウも連れてきて…と。

他にもいくつか挙げてみましょう。ベートーヴェンの連作歌曲集《遥かなる恋人に An die ferne Geliebte》作品98では、ツバメのつがいを例えに「冬が引き離した者たちを、5月が再び結びつける」との歌詞があります。5月が来たのだから、離れている恋人よ、僕のこの歌をもう一度歌っておくれ…そうすれば僕らを隔てているものがなくなる…と。ブラームスには屈指の名曲〈5月の夜 Die Mainacht〉作品43-2があります。こちらはナイチンゲールや鳩のつがいの鳴く5月の美しい夜をそぞろ歩きしながら、恋人を失った孤独の涙にくれる者の歌です。この詩には、実はブラームスより先にシューベルトも曲を付けています(D194)。聴き比べてみるのもいいですね。さらに5月の歌曲として忘れてはならないのは、先ほども触れたシューマンの歌曲集《詩人の恋》作品48です。冒頭の第1曲で、「すばらしく美しい5月に」僕の心に恋が芽生え、そしてその人に思いを打ち明けた…と熱く歌い上げます。(ただし、この曲のピアノ伴奏は和声的に不安定で、最後も微妙な和音で終わります。何かの予感のように…。)

このシューマンの《詩人の恋》については、それだけではありません。実は作曲された時期も5月なのです。1840年、彼は婚約者でピアニストのクララ・ヴィークとの結婚の権利を求めて、クララの父フリードリヒ・ヴィークを相手に裁判で闘っている最中でした。このクララの父親はシューマンのピアノの師匠でもあったのですが、結婚に猛反対してシューマンを大酒飲みなどと中傷したり…まあ泥沼の裁判だったのです。そんななか、この年の2月からシューマンはひそかに、クララへの結婚の贈り物として詩を選んで作曲を始めます(→歌曲集《ミルテの花》作品25)。次第にのめりこみ、5月に入ると歌曲創作の勢いは爆発的なものに…。アイヒェンドルフの詩による《リーダークライス》作品39(全12曲)、そして5月24日から6月1日までに、ハイネの詩による《詩人の恋》(当初は全20曲)を一気に書き上げます。音楽史上名高いこの二つの歌曲集が、1840年5月のひと月のうちに生まれたのは、驚異的なことです。クララへの思いもさることながら、さわやかな春の息吹が、作曲者の心を刺激したのでしょうか。

この「詩人の恋 Dichterliebe 」というタイトルはシューマン自身がつけたものですが、詩は著名なドイツの詩人ハインリヒ・ハイネの『歌の本 Buch der Lieder』の中の連作詩「抒情的間奏曲 Lyrisches Intermezzo 」からの抜粋です。シューマンはハイネとどのような関係にあったのでしょうか。この詩集から、どういうつもりで歌曲集を仕立て上げたのでしょうか。

…さてこの続きは、また次回にいたしましょう。先に挙げた曲についても、追って詳しく紹介していきます。お薦めの録音なども紹介する予定です。今では曲の原語タイトルをインターネットの検索画面に入れれば、録音音源が簡単にヒットしたりする便利な世の中になりました。ストリーミングもあります。ぜひ少しずつ聴いてみてください。ここで配信する記事で、一人でも多くの方がドイツリートの世界を知る、深めるきっかけになればうれしいです。これから随時いろいろな切り口から、歌曲を聴く楽しみを紹介していきたいと思います。

【今日のお薦め】ベートーヴェンの《遥かなる恋人に》が入ったペータ・シュライアーの録音。ピアノはアンドラーシュ・シフです。交響曲など器楽作品とはまた別の味わいを持つ、表情豊かなベートーヴェンが楽しめます。






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