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アンナ・ルチア・リヒター&ティル・フェルナー@トッパンホール

2023年2月15日、トッパンホールにてアンナ・ルチア・リヒター&ティル・フェルナーによるドイツ歌曲リサイタルを聴いてきました。アンナ・ルチア・リヒターといえば、この「とりのうた通信」でも過去にご紹介していますが、現代ドイツの若手世代を代表する歌手のひとりです。澄み切った声のソプラノ歌手として、シューベルトやシューマン歌曲を初めとする名演を数々聴かせてくれていました(日本ではN響と共演したマーラーの第4交響曲での歌唱を覚えておられる方が多いでしょう)が、2020年にソプラノからメゾソプラノに声種転向!メゾソプラノ歌手としての新たなスタートを切った彼女の生の舞台を日本で初めて聴けるとのことで、大変楽しみにして出かけました。プログラム構成はブラームス、シューベルト、そしてシューマン。以下は、そのレビュー+αです。

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満員の客席を長く待たせることなく、紺色のドレスで颯爽と現れたリヒター。冒頭ブラームスは《ドイツ民謡集》からの抜粋で、まず〈Da unten im Tale 下の谷間で〉。ドイツ民謡の中でもよく知られたこの曲、しっくりとリヒターの明るい中低音にはまって良かった!ブラームスの民謡集独特の軽妙なスタイル、男女の会話の表現は、彼女の得意とするところかもしれない。メゾソプラノとしてのリヒターの声は柔軟性あり、変幻自在なのが魅力。〈In stiller Nacht 静かな夜に〉もフェルナーのピアノと相まって深い感慨に満ち、素晴らしかった。続くシューベルトでも夜の情景が数々歌われたが、筆者の心にとりわけ残ったのは、有名な〈Wiegenlied 子守歌〉D498。当初発表のプログラムには入っていなかったものだが、敢えて入れた意味はわかる。激しい心の叫び「グレートヒェン」の直後だったが、これなら誰でもすやすや寝入るにちがいない…と思えるほど、温かく柔らかい懐。一方、〈Der Wanderer an den Mond さすらい人が月に寄せて〉D870 のような自由奔放な若者の表現も、とてもリヒターに合っていた。時に奔放な青年、時におきゃんな少女、時に慈愛に満ちた母親…。前半のプログラムだけで実にチャーミングで豊かな表情を次々繰り広げた。

リヒターの特徴がますます露わになったのが後半のプログラム。シューベルトは「春」を主題とする数曲が歌われたが、〈Heidenröslein 野ばら〉や〈Im Frühling 春に〉では、有節歌曲の節回しに変奏を加えたり、一部でイネガル(不均等)奏法的な歌唱も聴こえた。特に〈野ばら〉での変奏はかなり大胆で、客席からも驚きの声が漏れたが、最近では例えばユリアン・プレガルディエンなどもシューベルト歌曲で積極的に変奏を加えて歌っている。明らかにピリオド・スタイルが19世紀ドイツリートの領域に入ってきている。リヒターは元々バーゼルで古楽唱法を学んでいるから、ある意味ドイツリートに宿る伝統的要素を巧みに感じ取っているのかもしれない。

そんな彼女の強みが最も発揮されたのは、プログラム最後のシューマン《Frauenliebe und  -leben 女の愛と生涯》op.42 だろう。満を持しての、もしかしたらこの作品をこう歌いたいからメゾに転向した…と言わんばかりの、魂の声の名唱だった。ありそうでなかなかない…。何度この作品を聴いたか数え知れない筆者だが、今回大変面白く聴いた。何が面白かったのか。表現が適切かわからないが、あえて誤解を恐れずに言うならば、それはリヒターの歌唱がどこか「ジェンダーレス」に聴こえたことだった。「女の」というより「人間の」あるいは「魂の」愛と生涯だったのかもしれない。シューベルトやブラームスでも見せたとおり、リヒターのメゾとしての歌唱は、青年のような自由奔放性というか、どこか雄々しい魅力に満ちている。その自由なままの、おそらくリヒターの本性の声が、このシューマンの曲集の例えば第2曲で典型的に聴かれた。その歌詞で歌われるのが…「誰よりもすてきな貴方…」「私のような卑しい女を知ってはなりません」…etc. なわけだから、面白かったのだが…、なるほど、この曲のシューマンの音楽はそもそも非常に雄々しいではないか。恋する乙女の心に宿る「彼」の姿はあまりにも輝かしく、「彼女」の心も激しい鼓動に舞い上がる。そこでは、彼と彼女の魂が一体となっているよう…。リヒターとフェルナーの確固たる力強き音楽は、シューマンの音楽を全く真摯に具現したものだった。

ひとつ指摘するならば、《女の愛と生涯》という連作歌曲集は、音域があまり高音には広がらないから、シューマンが書いたオリジナルの調(原調)でソプラノ歌手もメゾソプラノ歌手も歌おうと思えばできなくはない。(逆に、ソプラノ歌手にとっては部分的にやや低い、メゾ歌手にとっては部分的にやや高い、どっちつかずの音域といえるかもしれない。)リヒターにとっても悩ましいところだったかもしれないが、今回の演奏では部分的に移調されていた。(筆者の耳の判断が正しければ)ペータース版の中声用の譜面が使われたのかもしれない。珍しいことではない。ただこれだと結果的に、低く移調された曲と原調のままの曲とが混在するので、曲集全体を考えた場合、シューマンが意図したオリジナルの連作の調の相互関係は崩れてしまう。特に、最後の第8曲冒頭などは(本来ならその直前のD-dur が d-moll になるという、同じ主音での明暗の転換が行われるはずなのだが)、その緊張感が解けてしまっていた感が否めなかった。ただ、今回の演奏では、そうした連作(続き物)としての作品の緊密性は、そもそもあまり重要視されていないようにもとれた。むしろ今回のデュオは、主人公の人生の様々な瞬間における感情の高まりを、オペラアリアのように個々の独立した情景として聴かせてくれた…と言えるだろうか。1曲1曲の感情に、その瞬間の魂の躍動に、非常に真摯な演奏だった。その意味で、自分の声域にぴったりと適合した調を各曲で選ぶことは、今回の場合、賢明な選択なのかもしれない。(余談だが、筆者自身はソプラノなので、シューベルトやシューマンにおいてあまりこうした移調の問題には関わってこなかったが、リート歌いの多いメゾソプラノやバリトン~バス歌手の方にとって、移調譜の悩ましい問題があることは体験談を通じて知った。連作歌曲集で各曲の調の関係を保ちながら移調することの大切さはやはり大きいと思う。メゾソプラノのエリーナ・ガランチャなどは、《女の愛と生涯》全8曲すべて全音下げて演奏しているのが録音から確認できるが、それは曲集全体として確かな説得力がある。)

今回の演奏に関連して、ひとつ以前より気になっていたことに触れたい。Frauenliebe und -leben というタイトルに対する邦訳についてである。日本では「女の愛と生涯」という訳が定着しているが、かつてピアニストとしてこの作品を演奏した武久源造氏は「女の恋といのち」と訳されていた。「Leben」というドイツ語には「人生」「生活」「命」といった複数の意味合いがある。これを「生涯」と訳すこと自体は誤りではない。ただ「生涯」と言われると、現代の日本人はどこか無意識に「長い人生」というニュアンスで受け止めないだろうか。確かに元のシャミッソーの詩には、シューマンが作曲しなかった最後の詩があって、そこでは主人公はおばあちゃんになって孫娘に語っている。しかし、シューマンはそれを省いて、夫の死をもって物語を完結させた。そこには何か意味や思いがあるのかもしれない。…もしかしたら、人生も生活も命も…どこか短く限りあるもの…ということなのか。激しく燃えて、やがて永遠の中に消えていく…そんな、極めて凝縮された命のあり様が、ここには立ち現われないだろうか?その夫の突然の死についても…あれこれ思う所ある。この作品は、極めて21世紀的なメッセージも含むと筆者は考えるのだが…、これについては長くなるので、また回を改めたいと思う。

いずれにせよ、今回のリヒター&フェルナーのデュオは、そんな「いのち」を感じさせる演奏だった。ちなみに、舞台上でリヒターは譜面台を置き、フェルナーのピアノの蓋は半開。それでも、リヒターの歌唱は身振りも表情も大きく、フェルナーのピアノは音量豊かで深みのある、しっかりとしたものだった。二人のバランスは良好で、聴きごたえがあった。フェルナーはリートのピアニストとしては、リヒターが過去に共演しているミヒャエル・ゲースやゲロルト・フーバーなどとはタイプの異なるピアニストと思う。ソロでバッハやベートーヴェンを得意としているからこその堅実な音づくりが、今回のプログラムにはとても適合していた。ちなみにアンコールはブラームス〈Ständchen セレナーデ〉op.106-1 と〈Wiegenlied 子守歌〉op.49-4。このデュオのブラームスは今後もっと聴いてみたい。

21世紀のリートがますます楽しみになってきた。そんなことを想う一夜だった。

最後にコロナ下でオンライン配信された(メゾソプラノとしての)リヒターのシューベルト〈Der Wanderer an den Mond さすらい人が月に寄せて〉D870 の演奏をご参考まで。


【今日のお薦め】ソプラノ時代のリヒターと奇才ミヒャエル・ゲースによるユニークな歌曲集。ブリテンとブラームスによる民謡編曲作品とシューマンの《リーダークライス》op.39 が綯い交ぜになっている。間をつなぐ即興的作品もこの両アーチストならではのもので、すばらしい。このアルバムは、シューマンのOp.39を素材にして新たに編まれた現代の《リーダークライス》なのだ。Op.39をオーソドックスに聴きたい方には向かないかもしれないが、明らかに伝統の枠にとらわれず、21世紀のドイツリート演奏の可能性を示してくれた画期的なアルバム。








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