カタカムナとの出逢いーその5

こうしてカタカムナ音読は、私のメインの教育メソッドになった。
私に学ぶとは、まずカタカムナ音読を学ぶことになった。
怪しいと思われるかもしれないがその効果が絶大であるからやらないわけにはいかない。
カタカムナの音を耳にすると、感応すると、声に出して読むと、日本語についてのアタマのハタラキが変化する。なんといえば良いか、言語的に認識が深くなる。話す言葉がはっきりするようになる。同時に人の話すこともはっきり伝わるようになる。おまけに本が良く読めるようになる。さらには文章が書けるようになる。文章が書けるようになった生徒は入試に非常に強い。もちろんあらゆる教科の伸長も可能になるという驚くべき教育ソフトである。これは学習とは言語を通じてのものであることを再確認させる。そしてあらゆる試験は日本語で行われる。
つまり、入試に勝とうとするなら、というより、日本で学力を効率的に向上させるにはカタカムナ音読の素養を身につけることが最短ということになる。
なぜカタカムナ音読を行うと日本語能力が伸びるのか、そしてその延長線上で日本語古典を過去から現在へ一音一音切って読む練習をすると、なぜ古文は訳さずにそのまま了解され、現代文も確実に読めるようになるのか。実は日本語は本来一音一音に意味があってそれを繋げた言語なのではないか。
平仮名一音に、「る」をつけると、ラ行以外、全て意味がある動詞になる。例えばア行では、「ある」、「いる」、「うる」、「える」、「おる」、カ行では、「かる」、「きる」、「くる」、「ける」、「こる」と、全ての平仮名に「る」をつけると意味がある動詞になるのはなぜか。これは実は平仮名一音一音に日本人が共有する抽象的な思念、あるいは直感的に共有する感覚があるからなのではないか。
音読すると、明らかにカタカムナは「ウタヒ」であり、その伝統は和歌に受け継がれたと思う。和歌とは本来言葉で表出しきれない感情を表現しようとするもので、だからこそ「ウタ」になる。詠唱しなければ和歌ではない。そして、そのためには一音一音切って読むことが欠かせない。
カタカムナは、宇野先生を代表とする相似象学研究者によると、八千年以上前から伝わる言語であるということである。これも俄かに信じ難いことであるが、『古事記』に出てくる神の名は、ことごとくカタカムナから取ったものであり、このことから少なくともカタカムナが『古事記』に先行する文献であったことは間違いない。
カタカムナを音読しても、その意味ははっきりわからない。研究者たちはその図象文字の解釈研究に膨大な時間を費やして、それが潜象科学について記されたものであるとしている。そしてそれは極めて難解であり、解釈は多様である。しかし、通常常識的に考えれば、言語においては、文字より先に音があることは確定的である。だから、文字の研究よりも、これを声に出して読むことこそが、そのメッセージを感じ取ることになるのではないかと考えた。
宇野先生は、重ねて「直感力」の大切さを訴えていた。つまり、左脳的にこれを理解するのではなく、右脳的に直感することが正しいということになるのか。
私はHSPであるが、いわゆるスピリチュアル系ではない。月の遠近WAVE研究は科学的なものである。そして限りなく無神論に近い哲学人である。ただ、教育実践家として、カタカムナ音読の効果が他のいかなる国語学習より大きいことを知っただけである。言語発達が遅い子どもたちもこれで何回も救ってきた。カタカムナ音読は全ての子どもの日本語力を伸ばす。だからこそ、公教育でこれをやるのが正しいが、それは当分無理なことだろう。ひょっとすると未来永劫に期待できないことなのかもしれない。それではこの万能的メソッドが子どもたちに伝わらない。伝わった子どもたちだけが救われることになる。それは「フェア」ではない。
この社会において、学問の素養があることは大きな武器になる。だからこそ、多くの人がそのために一生懸命努力して膨大な時間を使う。しかし、あらゆる学問は、授業も、教科書も、そして試験も皆日本語を用いて行われている。だから、学問をする前に言語力を高めておくことが筋道なのである。
あとどれぐらい生きられるかはわからないが、自分はちっぽけな自分の人生を、この全ての子どものアタマを良くするメソッドを伝えることに捧げることにした。このブログの読者の方も、是非機会を設けて、私が各地で音読会が開けるように協力してほしい。もちろん、今後音声、映像という手段も用いて紹介していく所存であるが、幼い子どもを持つ親がこれを音読練習しているのを子が耳にする環境設定が最高だと思う。

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