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寒さと見えない何かの話


 眠れない夜には決まって、イヤホンで耳を塞ぎながら、突拍子もないことを考える。
 ──もしいつか死んだら、ひんやりしていてあんよが透けてて、ちょっぴり薄ぼんやり光るキュートなおばけになりたいな。

 これは希死念慮だとかそういう重たいものではなく、純粋に、ふと、そう思った。キュートなおばけになって、夏場にみんなのことを冷やすのだ。暑くて寝ぐるしいひとの枕にそっと手をやって、ひんやり。熱中症になってしまったひとの首元に近付いて、ひんやり。うん、いい。ひんやり屋さんになりたい。直接は触れないけれど、ドライアイスの煙に触れたような、なんとも言えない感触がしたら最高だ。


 いや、そういえばあれは、…あの「ねないこだれだ」に出てくるおばけみたいな形の、まんまるとちぎったおもちのような愛らしいフォルムのやつらは、果たしてどんな感触なんだろう。マシュマロボディのマスコット的な、あれ。
 もちもちしていそうで、すべすべしていそうで、…それでいて、触れられなければいいな。おばけというものはどんな形であれ、得てして生命力を吸収したりするものだから、やはり周りの温度を吸って常にひんやりとしていてほしい。かわいい見た目であれど、おばけはおばけであって………今まさに喰いものにされてしまうような、そんな絶体絶命の状況でやっと〝触れられてしまう〟、干渉できるようであってほしいという、これは自分のエゴなのですがやはりそういうイメージがある。


 こわいおばけ。幽霊。その類のものはだいたいが、ひとの形をしている。
 白い服で髪の長ぁい女の人が、ぼんやりと立っている本物だか偽物だかわからない映像を、夏場にはよくテレビで目にするでしょう。あれはどうしてそういうステレオタイプがあるのだろう。Photoshopだかなんだかで加工されたのであろう画像も、まあ数百枚に一枚は本物があるのかもしれないが、大概同じような見た目の幽霊をしている。もしかして心霊写真に映るおばけさんにはレギュレーションがあったりしますか?どうなのでしょう。そのへん教えてもらえたりしませんか。こころのやさしい幽霊のかた。そうそう、そこの…なんて、きっともしかしたらいま目の前で誰かが伝えようとしてくれているのかもしれないが、生憎私には霊感などというものは備わっていない。露ほども感受できないことをどうか許してほしい。ごめんね。


 ところで皆さまはご存知だろうか。《応挙の幽霊》という落語。
 応挙が描いたとされる掛け軸を、骨董屋が客に売る。買い手がつき、さらに美味しい食事まで供えられて機嫌が良くなった応挙の掛け軸の中の幽霊が、認められてうれしい、買い手がついてうれしい、ありがとうと骨董屋にお礼を言う。そうして、あたし芸妓をしていたんです、お酒の相手にならせてくださいとお酌する話だ。
 私はあの話が好き。とってもかわいい幽霊なんだもの。幽霊らしいあの世ジョークやおうた、お酒に会話と楽しんで、酔っ払って掛軸の中で眠りこけてしまう幽霊が、かわいくて仕方がない。死んでも恨みごとではなく感謝を伝えるために出てくるのって、なんて素敵なんだろう。私もそれがいいな。
 おばけになってあなたが私を見えなくなっても、聞けなくなっても、知覚できなくなっても最後に伝えたい言葉はありがとうがいい。

 応挙、彼は足のない幽霊画を初めて描いた画家だそうです。私たちの中のイメージのあんよが透けているあのおばけ、あれのルーツは応挙という画家なんですね。
 調べてみると、透けるあんよの由来は、どうやら「反魂香」というお香をイメージしているようです。それをたくと、魂を呼び戻して死んだ者の姿を煙に映してくれるという伝説上のお香。中国の故事によるものだそうですよ。ひとつかしこくなりましたね。


 いつか言葉が届かなくなること。声が耳朶を打たなくなって、体温がとるりと抜け落ちてしまうこと。それはきっと寂しいことでもあるし、同時に当然の摂理であるとも思う。結びが決まっていることは、それ即ち安心である。物語のオチが決まっているならば、道中にいくらでも寄り道ができるものだ。

 身体を脱ぎ捨てて、その後の自分が21gなんて根拠のないデタラメな質量であると仮定したとして、そうして私は、伝わるかもわからないメッセージを一方的に打ち続けるのだ。感謝とか、応援とか軽口とか、もう動かない心臓が温かくなるような何かを。伝わらなくてもいい、ただの自己満足なのだから。あなたの枕元の、充電された端末のモニター越しに、少しの冷気を残して。


 ね、おはよう。今日もさむいね。

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