見出し画像

意識外のクオリアとかの話


 思いがけず誰かを加害してしまうことが怖い。自分の意図しない衝動で、言葉で、価値観で行動で誰かの心に傷を付けてしまう可能性にいつもどこか怯えながら息をしている。

 夜更けにひとりで考えていた。かなしみを得ると決まって反芻することばがある。ひとに、同じことをしないようにしよう。幸か不幸か傷つきやすい自分の性質はこの学び方によく合っていた。心に少しでもひっかかったものを無くさずに書き留める。私はひとにこうしないように。誰かを傷つけないように。然して安寧を取り戻す。

 それでもどうしようもないときがあって、それは根本的な考え方が理解できないときだ。そもそもそんなこと、考えもつかないから自分に取り込みようがない。たいていのことは、つまるところひとはひとと分かり合えないのだという結論で決着がつくのだが、それで決着がつかないくらい傷つくことが時たまある。こうなると厄介だ。私もいつか同じように、自分の思い及ぶところの外でひとを傷つけているかもしれない。

 無意識の加害がいちばん恐ろしい。点数だけ渡されるテストの解答用紙は、どこを直していいかさっぱりわからないとの同じように、無意識に間違えたことは修正のしようがないからだ。
 傷つくことだなんて生きていれば当たり前のことだと、自分事ならば呑み込めるのに、対して人を傷つけることは当たり前だと思えないのは、生きにくいことなのかもしれない。それでも誰かを傷つけたくはなかった。傷つくことはかなしいことだ。私はそれを、受け入れられなかった。

 何にせよ、結論から言えば何もかもが仕方のないことなのだ。価値観の相違も、他者を傷つけてしまうことも。(だって考えてもみれば、やさしさのかたちだって人それぞれなのですし。)それでも、仕方の無いことだからと諦めてしまいたくなかったんだな。無意味だと思いたくはなかった。自分が無意識下で他人を傷つけてしまっているかもしれないと自覚していれば、いざ誰かを傷つけてしまったときに二次応答が起こる気がするから。

 かなしみに直面して、わたしが茫然と涙をこぼしていたとき、友人がぽつりと贈ってくれたことばがある。悲しいときなんてなければいい、あなたがしあわせであればいいのにと、そう私に祈った彼女は、さらにこう続けたのだ。涙を流すのは、そうしたいときだけであればいいのに。不思議とその一言が、すとんと心に落ちた。かなしさをしんしんと味わいたいときには、そうしてもよいのだろうか?泣くことはいけないことだと思っていたものだから、あまりに想定外で驚いてしまった。そう考えると成程確かに、物語なんて感情を味わうためのデータなのだから当然だ。味わいたい時に味わいたいものをだなんて、何だかおやつみたいで拍子抜けした。

 味わいたくない感情は違う味に変えてしまえばいい。ほしい時に欲しいものを好きなだけ取り出せばいい。そうやって考えたら少し、かなしみと加害への恐怖にこわばる身体が緩んだ心地がした。

 だめだな、風邪をひくと、やたらと深く考えごとをしてしまってほとほと困る。おまけに寂しがりになって大変だ。ぼんやりと輪郭が滲む視界の中で、いつか本で読んだ、病人の甘えかたを夢に見た。濡れたタオルが額に乗せられて、それが冷たくて心地好い。キッチンからは料理の音がして、もう少ししたら卵粥が出来上がるのだ。ひとつぶ鼻筋を横切って左頬に伝う感覚で目が覚めた。上を向く。こういうときが、孤独やさみしさを感じたいときなのかもしれない。きゅうと胸が痛くなって、噛み締めて味わったら甘い気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?