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空海

774-835年 父:佐伯 田公(讃岐国郡司) 母:阿刀氏の女性
おじ:阿刀 大足(第50代 桓武天皇の第3皇子・伊予親王の侍講)
兄弟:鈴伎麻呂、酒麻呂、魚主(以上下級官僚)、真雅(弟子)

空海は讃岐国から都に出て、おじの元で勉強し官僚になるため大学に入るが、中途で辞め私度僧になる。東大寺戒壇院で得度し、遣唐使となった。

❶ 唐から帰国し逗留した神護寺

(京都市右京区梅ヶ畑高雄町)
809年、京に入ることを許された空海は和気氏の氏寺・高雄山寺に逗留した。第52代 嵯峨天皇との距離も近く、交流が始まる。先にここで講義をした最澄とのやりとりの舞台ともなった。824年に寺名を高雄山寺から神護寺に改める。

神護寺 太子堂

❷ 乙訓寺の別当を命じられる

(京都府長岡京市今里)
811年、嵯峨天皇より早良親王が幽閉された乙訓寺の別当に命じられる。伊予親王の変の際、藤原吉子と伊予親王が幽閉された奈良の川原寺(奈良県高市郡明日香村川原)も嵯峨天皇より賜ったと伝わる。その時代に至るまでに起こった政争の現場を任される。

乙訓寺

❸ 90日間の祈祷と民間信仰

神光院(京都市北区西賀茂神光院町)
この辺りは御所の瓦職人の拠点だったが、上賀茂神社の神職が1217年寺院を創建。空海は42歳の時に90日間逗留した。眼病平癒や、空海が伝えたという疫病を封じる「きゅうり封じ」が伝わる。「五山の送り火」も空海に由来するという説があり、人の節の過ごし方などに影響を与えた。

神光院
「きゅうり封じ」

❹ 東寺を給預される

(京都市南区九条町)
823年、嵯峨天皇より東寺を給預された。東寺は平安京の官寺である(西寺には現在跡碑のみが残る)。空海は東寺を教王護国寺と号する。

❺ 請雨教法を修した神泉苑

(京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町)
824年全国で日照りが続き、第53代 淳和天皇の命で請雨教法を修した。

神泉苑

❻ 離宮から大覚寺へ

大覚寺は嵯峨天皇の離宮に空海が五大明王を安置したことに始まる。818年、飢饉に際し空海は嵯峨天皇に写経を勧め、現在心経殿に奉安されている。天皇没後に寺院となり、両統迭立の時代には大覚寺統の御所になった。

❺ 高野山と入定

(和歌山県伊都郡高野町高野山)
816年、高野山に密教の道場の建立を朝廷に願い出て許可される。空海が多忙であったことや都から離れていること、官寺ではなく氏寺であることなどから完成を見ず中途で亡くなった。奥の院は空海の墓所となり、後に参道に歴代の武将の墓が並ぶこととなった。


【全国の史跡】

❶ 生誕地

善通寺(香川県善通寺市善通寺町)

❷ 若い頃の修行の伝承

大聖院 霊火堂(広島県廿日市市宮島町)
宮島の弥山で空海が行をとったと伝わる。その他、全国各地に伝説がある。

大聖院 霊火堂

❸ 藤原氏との関わり

興福寺 南円堂(奈良市登大路町)
藤原冬嗣に進言し藤原氏の氏寺・興福寺に南円堂を設計、鎮壇法を修した。冬嗣とは大学で同世代であった。