続・ライブ行けない問題と向き合う

ライブ行けない問題と向き合うという記事を書いてから、1年経った。なんとびっくり、すでに1年と8ヶ月の間、ライブ行けないマンのままだ。AXSがデビューしてから三部作リリース手前まで来れる年月である。(AXS一期のスピード感と濃度が変態すぎるがゆえあまりピンとこない喩え)

ありていに言えば、ライブに行けないヲタクはどうすれば苦しみから解放されるか、の俺なりメンタルマップ最新版がこの記事である。

基本的には前回書いた考え方から大幅には変わっていないのだけど、より具体的に考え方を整理した。こじらせてると感じる方もいるかもしれないが、これも1年8ヶ月のひとつの成果物、長文ですがどうぞおつきあいください。


0 game ~ その幸せは本当に奪われたか ~

ライブに行けない民を大いに苦しめるモンスターのひとつに「ふだんだったら絶対行ってた」というのがあるだろう。

言い換えれば「自分は行けるはずだったのに行けなかった」である。

たとえば地元ライブには真っ先に駆けつけたいし、記念ライブなら日本のどこだって行きたい。行くためにはそれなり努力もする。衣食住ライブ、ライブこそ我が基本的人権、天上天下ライブ独尊。なのに、その大事なライブに、自分の意志に反して行けなかったら。文句なしの激萎え事案である。

話は打って変わって、先日、町田康氏の『しらふで生きる』を読んだ。ド級の大酒飲みであった町田氏が禁酒にいたるまでの心身の経緯を見事に言語化した名エッセイである。

飲酒に走る理由を、町田氏はひとつ「自分は幸せになるべきだと根拠なく信じている人が、本来持ってるはずの幸せになる権利を日々のツライことで理不尽に奪われていると感じる」ことに見出し、幻のハイレベルな幸せを取り戻すべく飲酒の沼にハマっていくのだというように分析されている。ここから禁酒につながる話はこの記事とは関係ないので、上記の考え方だけ頭に置いていただきたいが、俺はこの考え方が性に合っていて、飲酒以外のいろんなことに当てはまるように感じる。

つまり「自分は幸せになるべき」という根底の考え方自体を、それホントか?幸せになる権利なんかもともとあったんか?と問い直すというわけだ。不幸でも我慢しろとは全く言ってない。だが己がつかむべき幸せへの期待値が高すぎるとしたら、自分がそこに全然追いつけないツラさが当然際立ってしまう。納得。

最高のライブに行けて当然と考えている場合、もし行けなければ既得の幸福権を不当に奪われ人生収支がマイナスにされたように感じ、自分が見捨てられ虐げられたカッスのように思えて世の中を恨む。ライブに行けない不幸の正体、ここに見たりと言えまいか。

「行きたい」「会いたい」という純粋な気持ちとは別に、「行けなきゃおかしい」という思いが自分の中にないか?ということである。推しに会えない悲しみと、行けるはずだったのに行けなかったという不満感は、よーく考えると別物だと気づく。

言われてみたら、俺がそのライブに行って推しに会うのが順当だって、誰が決めたんだっけ。たぶん自分だろう。日々、抑圧されればされるほど、がんばったんだからと思うほど、その念は強くなる。だが俺が無事そのライブに行って楽しむ権利なんて、残念ながら法律で保障されたことでも宇宙の理でもなんでもない。家事仕事がんばっても、誕生日だろうが結婚記念日だろうが、残念ながらノーカンだ。

あ、ライブに行けるのって別に人として当然のことじゃなかった。っていう、まずそんな当たり前のことを当たり前に認識してみる。これが第一歩。

この認識が自分のスタンダードになってきたら、クソ楽しみにしてたのにライブに行けないなんて怒髪衝天、マジ許せないみたいな心境にならなくなってきたように思う。

推しがライブやっててくれて、諸条件が合って、行ける環境を作った自分も偉いし、健康もありがたく、チケ取れて無事に遠征できるのもミラクルで、もちろんライブの内容も最高オブ最高来てよかった〜〜〜っていう流れは、あたりまえに約束されたもんなんかじゃなかったはずなんだよね。

頭の中ではそんなのわかってる、でもな、と反論したい気持ちが湧き上がってくるかもしれない。けど自分がこれまで体験できたライブがどれだけエスペシャリーで、ここまでの自分をグレイトフルに育ててくれたかをじっくり思い起こすと、そんなサムシンでフィーリンでヘーブンな空間に、行けるやろなどと思っていたことのほうが推しに対して失礼だわって感じに自然となっていく。

ライブに行けてしかるべきなのに行けなかった、という思い込みは、文字通り自分の思い込みであって、どんだけ行きたかったライブに行けなかったからといって、プラスにはなってないが、実は決してマイナスにもされてはいない。

経験値的には元のまま。それはただのプラマイゼロ。


Stand By ~ 比べない、他人とも自分とも ~

これはもう何においても言えるけど、他人と自分を比べていいことはない。恋人の携帯を覗き見るのと同じぐらいに、いいことはない。

ライブに行けた事情にしても、ひとりひとりまるで土俵が違うんだから、ただ同じヲタクってだけで比べられるようなものではない。どれだけ、誰より、強く行きたいと願ったかとか関係ないのだ。そんなに行きたくもなかったけどたまたま誘われて行った人だっていたかもしれない。他人が行けたことと自分が行けなかったことを、自分の思いの強さや条件に照らして、比べてくやしがるほど無意味なことはないよ。ライブに行けなかった自分を過大に可哀想に見積もっても、ましてや行った人の幸せにあてつけても、自分の幸せはそんなあさましい原動力では増やせない。

誰かには誰かの人生があって、自分の人生とは全然違う。人生におけるライブの意味さえも、きっとヲタク同士だとしても、違うだろう。ライブに行けた誰かが遠くで、自分がもらえなかった、もらうはずだったものをもらっているように感じてしまったら、それはほかの誰でもない、自分自身の価値観がそう見せちゃってるってことを思い出すのだ。

さっきも言ったけど、もちろんツライ。ツライだろうけど、でも決してマイナスでもないんだ、ただのゼロなんだ。

いや私は絶対マイナスだ、楽しいことがないからどんどん心がすり減っている、と感じる方もいるかもしれないが、やっぱりその認識を、ゼロに戻すように目先を変えていくしかないのではないか。コントロールできない他因子によって幸せが阻害されていると感じても、結局 "誰か"でも"世界"でもない、自分の認識がそう決めているんだと俺は思うようにしている。

他人は気にならないけど、過去のバリバリライブ行ってた自分と比べて悲しくなるかもしれない。でも今がどうであれ、あの頃に戻りたい的なのはコロナ禍だろうがなかろうが俺個人的にはあまりイカさない。

今の自分と過去の自分、連続性はあれども決して同一ではない。ライブに行った思い出はいつまでも残るけど、いついくつになっても同じだけライブに行けるかと言ったら、それはどのような条件下でもたぶん、難しいことである。


REAL AT NIGHT ~ 世界一いとしい梨むき配信 ~

ライブ行けないつらさを乗り切る建設的な方法としては、やっぱりベーシックに、「推しを信じる」ことだと思う。行けずに終わったライブを機会の逸失とくやしく捉えたとしても、でもいつかまた、そのときの最高を見せてくれるという希望があれば、そのいつかを夢見ていられる。

俺はやっぱりDAがツイキャスを始めてくれたのが本当に嬉しくて、これはもう人生にとってのプラスもプラスでしかないので、ライブには行けないけどツイキャスには参加できる、というかたちの幸せを得た最新型ヲタクとして生まれ変わり毎日ホクホクと生きている。家でつながろうよっていうDAの気持ちが、なにより嬉しい。


BOARDING ~ 自己アピールからの卒業 ~

黙っていられない。
たぶん、2wayヲタクの性なのだ。

友達に存在を忘れられたら悲しいし、ヲタクやめてないアピールもしときたいし、なんとなく俺頑張ってるよって言っとくといい気もするし、なにかイベントがあると、自分もSNSで発言して盛り上げようという殊勝な気持ちになるんである。

でも、いいと思って心がけている前向き発言でも愚痴でも、言ってるそばから心の負担になることがあったらすぐやめたらいい。

SNSにおいて愚痴る、の対義は、元気そうにするとかいいこと言うではなくて、発言しない、ではないかと俺は思う。自分では面白おかしくカモフラージュしたつもりの俺の愚痴ツイって、実際大体スベっている。

DA本人さえ、正解のない中、迷い考えながら時間をかけてヲタクと向き合う時間と場所を探し構築してくれている今、ヲタクだって四六時中あらゆる方面に元気な顔をキープする必要はないと思えるようになった。

シンプルに受け取ったもの自体への感想ではなく、ライブには行けないけどこんなに満足してるんやで、という自分の充実度合いの発表は、このさい捨てたほうが気が楽になるようだ。

FIND NEW WAY ~ まとめ ~

ひとつ。俺は別にライブに行って幸せになるのを諦めたわけではない。一刻も早く行きたいと今も思っている。ただその日を現実にできるのは他の誰でもない、世界でも世間でもない、シンプルに自分である。

ふたつ。こんな正直なんでもない毎日を、がんばって意味のあるものっぽくする必要もない。まだしばらくパッとしないし、おもしろツイートも浮かばないかもしれないけど、それが今2021年、ありのままの俺の人生だ。次にDAに会えるときまでにせいいっぱい自分を高められていたらそりゃ最高にカッコいいけども、迷子になりそうだから、あまり慣れない環境で背伸びはしないほうがいいだろう。

みっつ。ライブというのはそもそもハチャメチャに非日常で大きい幸せだったと再認識する。ライブに行かずに、与えられた少ない蜜をもってライブの幸福感に匹敵するすべての幸せをゲインしようとするのはふつうに無理がある。推しが生きて梨むいてる事しか知らないときの幸せを、ライブに行って充実しているときの幸せと同じ程度にもってきてなおかつ長期運用しようとするのは無謀である。ただ今まで知ってた大きい幸せが獲られないことをマイナスと思わないで、もともとゼロなんだから、梨むいてくれてる分だけ今もプラスなんだと切り替えるととても幸せになる。

close your eyes ~ 夏への扉を開けた仔猫に捧ぐ ~

今これを書いている間にも、推し、ライブに行ったどこかの人、行ってないどこかの人、みんなそれぞれの人生を生きている。

いつかまたみんなの時間が交わる時が来るといいな。そこでとびきり大きなハッピーを持って帰れるだけのハートの場所を、大介のためにキレイにととのえながら、俺はもうしばらく、楽しみに待ち続ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?