私と貴方はもうどうやったってわかり合えないという現実があるから現実というのは私の中で唾棄すべき存在となった 私は決して善い人ではない 私の知らぬところで 如何なる窃盗放火独裁拷問殺戮虐殺が行われようと 知ったこっちゃあない 知らないもの だけども私と《貴方》が そこに必ず居る《貴方》が どうやったってわかり合えないということほど 惨たらしいことはこの世にない 詩というものは そういうときのためのものだ
「そら、みたことか」 ケラケラと笑いながらあの子が言う だけども目は笑っていない まだ 目はすべてを映すので 私は目だけを信じてる この世の理不尽に焼き尽くされ 灰になって尚もがく私を見て 「そら、みたことか」 ケラケラ笑いながら言うあの子の目が笑う日まで どうぞ カウンセリングでもなんでも メサイアコンプレックスだと言った 医者の目も笑っていない まだ
どれだけ頑張れどやはりこぼれ落ちてしまうので悔しい こぼれ落ちたモノたちは狭い隙間に入っていった 頑張れ が禁句的な世だか知らんが 人ってそれでも頑張りたいのよ 美しく惨めに生きたい あのさ みんなさ 先のことばっか考えてさ、 そういうのやめてよ。 (私のエゴ?) 私は こぼれ落ちるパフォーマンスをしているのではありません
「理想主義者って奴は現実問題を俺らに押し付けてよお、自分に酔ってていけすかねえ」 彼によると僕は理想主義者(たぶん) 「発達障害の奴と話すのは疲れる」 彼によると僕には発達障害がある(たぶん)(ちゃんと病院で検査しようかな……) 彼はちゃんと言ってはくれない だから僕も ちゃんと訊ねない グレーゾーンな こういう世界だから仕方ない (昨日まではね) (今日、僕は 世界を変えます)
昨今、多種多様な動画配信サービスの普及などもあり、以前よりも私たちはより簡単にエンタメを受け取ることが可能になった。ここで私ははじめ、『享受』という言葉を使おうとしたがやめた。というのも、享受とは Oxford Languages の定義によれば《受け取って自分のものにすること。また、芸術美などを味わい楽しむこと。》となっているからである。 私はこの、『自分のものにする』ということができている人は案外少ないのではないか、と思っている。勿論、感動する話を消費し、涙する人