善人より悪人でありたい
いつも思うことなのだが「いい子ちゃん」って何が楽しいのだろう。
大人にすり寄る人に限らず、ルールに執着を見せる人や、コンプラを気にしたり空気に合わせたりと波風立てずに生きている人たちを見るたびに思う。
いい子ちゃんは、「ルールだから」とか「そのほかの人が馬鹿を見るから」と言って自分たちにルールを守らせようとしてくるが、どうにも理解できない。
他人から指示されるという状況が気に食わないのだが、彼らには「やりたいこと」とか無いのだろうか。
我々も仕方がない時や、自分に利益があるか破ると不利益がある場合にはルールを守る。守ってないということはそうしない方が都合が良いから。
やりたいことが変わったのなら方法も変わる。でもルールは変わってない。
この時点でルールは言うなれば老害のような存在になってしまう。
老害にとって無視される方が老害扱いされるよりマシであるように、
ルールもきっと悪法扱いされるよりも適用されない方がいいに違いない。
「ルールだから」という守る理由が理由になってないルールや、自分の決めた予定や規則から逸脱する度胸のない連中の為に我々が不利益をこうむらなければならない状況を用意する彼らが善人なら自分は悪人でありたい。
周りばかり気にしてる人たちもそう。
法律という意味でのコンプライアンスは守るべきだし、モラルハザードや空気が読めないやつは嫌いだけど、最近のコンプラは一部の人たちを守ってあげるために求められる慎みのような物になってるし、空気を読むという行為も空気を壊さないように愛想笑いしたり暗黙の了解を守るものになってる。
こんなものの何が楽しいのか。
自分を殺してまで守らないといけないほどコンプラは大事じゃない。
SDGsでもポリコレでもマイノリティでもステレオタイプでもネタにしていいと思うし、環境団体の前で環境破壊しようが本人の自由だ。
当然悪意を持ってマイノリティを攻撃して良いなんてことは言わない。
話のネタにして議論と周囲の反応を楽しんだらそれでお終い。
その話題を外に持ち出してはいけないし、話題の対象であるマイノリティを持っていると分かっている人の前でディスるのは論外。
だけどコンプラを理由にするのは非合理的であり、同時に無思考だ。
こういうネタを扱ってると勘違いして非難してくる人たちがいるが、自分たちはそういうことを本気で思っているわけではないし、実際は逆の考えを持っていたりすることも多い。
行動基準は自分の納得できる理由があるかだ(もしくは面白いか)。逆張りという評価を下されるのはこの辺が由来だと思うけどこれは逆張りじゃない。
分かりやすく例を挙げるなら、業績を伸ばしてる会社が
「世界的に正社員を減らす風潮があるからうちも正社員を減らす予定です」
と言ってきた時にクビを受け入れて順応しようとするのが一般の人たちで、
「業績伸びてるのに?」とか「自分の生活は?」とか考えて反対するのが自分達だ。
これは極端な例ではあるが、自分たちが社会的にタブーとされてるようなネタに手を出す時は面白がっている以外に、上の例のように自分たちには納得できないという理論がある。
自分の意見も考えも押し殺して周りに流されて生きるのが正しいというなら自分は間違っていたい。
そして学生として生活していて一番問題だと思うのが会話に対する態度。
空気を読んだ上で壊すべき空気というのは存在する。
そんな空気の中にいてその空気を壊さない人たちは本当にその空気を理解できているのだろうか。ただ惰性で話を続けているだけじゃ無いのか。
自分たちがあえて空気を壊した時に「運の良い奴」みたいな反応をしてる時点で空気が読めていると思い込んでいるだけの愚か者ではないだろうか。
会話とは相手に合わせて馴れ合うものではなく、進展するべきものだ。
暗黙の了解や空気を守ると言った現状維持の言葉は不適切であり、そんなものは自分の幼稚な心と1人でやってればいい。
みたいなことを言うと会話の流れをぶち壊したり、空気を凍らせたりする人が出てくるが、誰がそんなことをしろと言ったのか。
もしその場の空気に従う人が話上手なら自分は話下手でありたい。
結論。今の社会が無思考に周囲と合わせることを規範としている人をまともだと評するのならば、自分は喜んで変人のレッテルを貼られることを望む。
MBTIの4文字にTとかPを持ってる人ならきっと分かってくれると思う。