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自分探しの旅やめます

2年前の今日、noteをスタートしました。

子ども達が成人し、気が付けば人生も後半戦。ほんの少しだけど時間の余裕が出たこともあり、素直な気持ちになって自分の想いを綴れる場所が持てたらと私自身に贈ったプレゼント。

それがnoteでアカウントでした。

旅の予感

当時、毎日投稿が流行りだったnoteだけれど、ボチボチと気が向いた時に、気が向いたことを書く。そのつもりでした。けれど、初めて応募した「ヨーグルトのある食卓」コンテストで賞をいただいたのです。

義理母から教わったヨーグルト容器だけで材料を計量するバレンシアの伝統的なお菓子レシピをエッセイと共に綴りました。仕事として私に割り当てられたものではなく、一つのテーマに対し何人もの人が書いたもの中から評価されるなんて中学校以来でした。

すぐに日本にいる母に報告しました。すると後日、懸賞のヨーグルト商品券を近所のスーパーで商品に引き換えてもらったと母からメッセージがありました。「久しぶりの美味しいのん、食べたわ」と嬉しそうに。

それからというもの、以前にも増して、noteを開く回数が増えていきました。どういう仕組みになっているのかは未だによく理解していませんが、noteの面白いところは、その時に自分が気になっているテーマ、自分好みの作品、クリエーターさんが、上手い具合に目の前にポンと出現するようになっているのです。

自分自身がフォローするのに比例して、一人、また一人とフォロワーが増えてきました。さらに、Twitterを連動させると、見ず知らずの方が私の記事をシェアして紹介してくださるのです。嬉しくて、有難くて、申し訳なくて、すぐにリプライを入れました。

すると、人というのは欲深いもので、最初のボチボチいこうかという気分は消え去ります。もっと上手に書けるようになりたい。もっと沢山の人に読んで欲しい。もっと「スキ」が欲しい。もっと!もっと!!と欲求ばかりが強くなっていくのです。


他の人には書けないような文章を書けるようになりたい。
自分らしい作品を作ろりたい。
そもそも、自分らしいって何?



事あるごとに、そんなことを考えるようになりました。

こうして、note界隈での自分探しの旅が始まったのです。

旅立ち

ところが、私は不器用です。『作品のための人物』をうまく創作できません。どんな時にも、何を書いても自分の経験や思考、常識や建前を上手に切り離せないのです。イマジネーション不足と言ってしまえばそれまでなのでしょう。

そのくせ気が小さくて、こんなことを書いたら仕事関係の人に変に思われたらどうしよう、家族に何か影響が出るかもしれないと不安に思ってしまう。

自分自身でどんどん枠を狭めていく気がしました。そこで、自分「ハルコ」の中にもう一つの『かもめのように飛びたいハルコ』を加えることを考えつきました。


そうだ……。
「かもめ」として自分探しの旅をしよう。
「かもめ」が私として飛べばいい……。


旅に出てはみたものの

生まれて初めて小説を書いてみました。柄にもなく勢いだけでサークルを作ってみました。企画の経験もないのに皆でトルティージャを作ってみる『トルティージャ祭』をやってみました。

世界各地で見えるたった一つの月を文章で愛でようと『世界の美味しい月』という企画もやってみました。コンテストにグループ参加するというのも前代未聞でしたが、皆さんのお陰で見事グループ優勝を勝ち取りました。

こうして、いろんな事をしてみましたが、上手くいったことばかりではありません。

コンテストやお題などに、気合を入れれば入れるほどほど納得したものが書けないということが気になり始めました。そして、それがトラウマになってきてしまったのです。

「何のために」「誰のために」書くのか分からなくなりました。「貢献」といった言葉も私を縛りました。

私のスランプを知って、励ましてくれるnote仲間の方もたくさんありましたが、どうしても自分の殻を破れずにいました。楽しみながら自由に羽ばたくことが出来なくなったのです。飛び方を忘れてしまったのです。

旅で見つけた物

そういう状態ではサークルの舵も以前にも増して上手く取れなくなり、何度もサークルを閉めようと思いました。それでも、「もう少しやってみたら」と励ましてくれるメンバーに囲まれ、励まされながら開催していた月一回のミーティングで、思いがけない事件が起こったのです。

自分自身の今後について報告しているつもりなのに、その真意が彼らに伝わらないのです。困りました。そればかりか、聞き手となってくれたこの日のメンバーがキョトンとしている一方で、私だけが悲壮感すら漂わせながら一人で喚き、怒りをぶちまけている状態となってしまったのです。

自分のことだから自分が一番よく分かっているというのは真っ赤な嘘。本当は、自分のことなんてこれっぽっちも分かっていないということに改めて気づきました。

私は怒っていました。泣いていました。喉の奥に詰まったものを上手く吐き出せずにいました。伝えたいものがあるのに伝え方を知らない自分がもどかしかったのです。どうして飛んでいたのか思い出したかったのです。

そんなことにすら気づかず、外に目を向けて必死に「私」を探していたのです。結局、大海原の旅で「私」は見つかりませんでした。なぜなら、「私」はいつだって「私」自身の中にいたからです。

そしてこの後、メンバーの一人ひとりが私に対して率直な意見を述べてくれました。優しい言葉だけの羅列ではありませんでした。言葉の矢が解き放たれる度に、忘れていた自分が一つ、一つと顔を見せるのです。

あの時、当たり障りのないように「あぁ、そうですか」で済ませることも出来たはずでした。それなのに、あの場に居合わせた夫々が丁寧に言葉を選びながら、飛び方を忘れた『かもめ』をしっかりと言葉で抱きあげてくれたのです。

彼らから貰った言葉は私にとって大切な宝物なので詳細は公開しません。けれど、私に向けられた「そのまんまでいいんだよ」という白くキラキラとした矢が刺さった場所から、今まで凝り固まっていた苦みのある濁った血が抜け出して、次第に透明になっていくのを感じたのでした。


いい歳をした大人が人前で、ZOOMで泣くなんてみっともないと思うでしょうか。そう思いたいなら思ってください。あの時の涙は、今まで、一人ぼっちで流した涙の何倍もの価値があるのですから。

彷徨っていた私を元の場所に引き戻してくれたあの時のメンバーに心からお礼を言わせてください。

ネット上で繋がっただけの薄っぺらい関係が多く存在する中で、こうした温かで信頼できる場所が持てた奇跡にとても感謝しています。

本当にありがとう。



もう旅をしない

あれからもうすぐ一ヵ月経ちます。

私はもう、自分探しの旅をしません。
『かもめ』を飛ばす必要はなくなりました。

そのまんまの自分に戻ります。

これからは、私自身『Harco』として飛びます。




2021年4月8日 Harco /(旧)塩梅かもめ

追記 訳あって、一度下書きに戻したら、先に頂いた沢山のスキやコメントが不覚にも消えてしまいました。皆さま、本当にごめんなさい。お気持ちはちゃんといただきました。ありがとうございます。

結局、私の天然ズッコケは何がどうなっても変わらないようです。

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