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美味しい人間になれる日が来るまで

先週、こんなnoteを書いてみた。

普段はレポートやエッセイ、コラムがほとんどで小説は書いたことがなく、実はとっても恥ずかしかったりするのだけれど、noteを通して繋がった方々の素敵な小説を読ませていただいていると、自分もいつかは書いてみたいなぁという想いがムクムクと出てきて思わず書いてしまった。

何だか、あれですね。ジムに行くのに着替えを持って行くのを忘れて、下着ナシで帰って来たような恥ずかしさ。事実とフィクションが混ざったものなんだけれど、やっぱりお尻がスースーとこそばゆい。

読んでいただいた方には、どう感じるのかなぁ。

(稚拙な文章!というのは重々、承知しております。お時間汚しで失礼します)

実は、書いた本人はこの投稿は「幸せ」について書いたつもり。ゆる~く繋がらせていただいているnote仲間のあきらとさんの企画#幸せをテーマに書いてみよう に参加するつもりで先駆けて書いていたのだけど、発表のタイミングまで待てずに先に出してしまった。

(あきらとさん、ゴメンナサイ。もう一本頑張るので許してね)

失恋の痛みが軸になっているようで実はそうではない。突然訪れた破局に傷つく以上に、よく目を開けてみてみると、いろんな幸せが目の前に転がっているのに気づいてもらいたい。

そして、人間の三大欲求である「性欲」「睡眠欲」「食欲」がいつもガッチリとリンクしているということも。


私自身、多くはないけれど恋愛の経験はいくつかあるし、失恋だったり、私の方からピリオドを打ったこともある。

私ときたら、何かにつけてそれはそれは臆病者で、石橋を叩いて渡る前にアレコレと気を回しすぎて、よし渡ろうと思うとすでに時遅しだったり、そうかと思うと、何にも考えないでドボンと荒海に飛び込んでしまうので、順風満帆どころか、お先が読めない人生を未だにおくっている。

加えて、恋というのは自分ではどうしようもない部分があるゆえ、恋の終わりに自分が受けるダメージというのは大小様々で、一概には言えない。

だから、ここで書いたのも、あくまでも一例にすぎないのだけれど、どういうマイナスな状況であっても、どこかに必ず一筋の光があると思っている。

太陽は地球の周りをまわっているんだから、ずっと自分に陽が当たっているわけがないでしょ。



この小説の中では、タイミングの悪い母の上京、無用に美味しいコーヒー、ピンク色のクマさんバッグ、カラフルなサラダ。偶然残っていた一本のハイネケンという沢山の幸せの種が転がっている。

手土産にもらったサラダが結果的には母の心を伝え、心の闇を取り払う手助けをしてくれている。クマさんの柄がピエロ柄だったらもっと落ち込んでいたはず。当然、「ごめん」の一言だけで奥さんとよりを戻した身勝手な男は、別れて正解。

(実際にはそんなにスッパリとはいかなかったりするんだけれど……)

失恋という悲しい状況だけれど、ちゃんといろんな所から光が差して、少しずつ前向きに動いているのに気づいてほしい。

もっと、突き詰めて言うと、無限の愛を与えてくれる家族の存在。幽霊の自分にメッセージをくれる周囲の人たちの存在。一人で潜り込むベットのある幸せ。パソコンがありネットに繋がれる幸せ。探せば山のようにある。


もし、母に理由をつけて会わずにいたら……。
もし、サラダを受け取らなかったら……。
もし、男と別れなかったら……。


当然、別の人生が待っている。

別の人生が悪いというのではない。それも大いに結構だと思う。逆に、筋書き通りにいかないからこそ千者万別の人生がある。

私が言いたいのは、どういう展開になっても、人生の片隅に転がっている小さな幸せの種を見逃さないようにしていきたいということ。

失敗もするし、お先真っ暗でどうしていいか判らない状況に陥ることもある。初めてスペインに来るなり手違いで宿無しになってしまって、留学生の下宿先を泊まり歩いたこともある。

一生続けられる仕事に出会える場合もあるけれど、そうでないことのほうが多い。いくら頑張っても空回りばっかりで自己嫌悪になるなんていつものことだ。

あんなことやるんじゃなかった。言うんじゃなかったと後悔して自分で呆れることも少なくない。精神的不な安を紛らわすために、”食べては吐く”を繰り返した時期もあるし、将来設計もなく資格を取りまくった時期もある。

その結果、自分史上で、オギャアと生まれてから四半世紀が過ぎ、そういう人様にお見せできないような不細工な自分も、自分の一部だと受け入れられるようになってきた。自分にとって『身』にもならないも事でも、『味』になってくれれば十分だと思う。

そして、いろんな『味』が一緒くたになって、誰も真似のできない美味しい人間になっていけたら最高じゃないのかな。


泣きたい時は泣く。
叫びたい時は叫ぶ。
酔いたい時は酔う。
腐りたい時は腐る。

そうでないとやってられない。完璧な人間なんて一人も存在しないんだから。


幸せの種が見つからない時。

そういう時には、立ち止まってみる。

走っていると見えないものが、止まってみると見えることがある。

止まっても見えないものが、実はお尻にくっついていることがある。

お尻にもどこにもないものが、空を見上げると見つかることがある。

それでもどうしても見えない時は深呼吸をして待てばいい。

まったく関係のない事をしてもいいと思う。

人と会って、話を聞いてみるのもいい。

人間だって充電が必要なんだから、そういう時期だと思えばいい。


幸せは大きさも様々でいろんな形をしている。今はまだ小さな種でも、やがて芽が出て想像以上に魅力的な花を咲かせるものもある。でも、自分から見つけにいかないとなかなか見つからない。誰もが素敵だと思える花でなくていい。自分だけが素敵だと思える花の種。それでいいんじゃないのかな。

命の大切さや人の優しさ、自然の偉大さや美しさ、色彩や芳香、音や感触そして味わい。そういった、五感を使って感じられる全ての幸せの種を探しながら生きて生けたらいいなぁ。

もっと美味しい人間になれるように。



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