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意訳:カリーレは日本の2部で夢を実現

引用元記事:Carille dispensa sushi e tradutor e realiza sonho na Série B do Japão

『ge』のインタビューで、カリーレ監督は若い頃から日本に住みたかったと説明し、アジアでの仕事を続けることを妻から要望されていたことを明かした。サントスの幹部、ドラセナとの軋轢を認め、サントスを去ったことは悲しい出来事だったと語る。

2018年に初めて海外で働くためにブラジルを離れたとき、彼はその動機が経済的なものであることを隠さなかった。「トラック2台分の大金」に納得した彼はコリンチャンスを離れ、サウジアラビアへ向かった。

さて、日本では状況はまったく違う。彼は長崎との契約解除金が「実に高額」であることを認めているが、それ以外にも彼がこの国を離れることを考えもしない理由がある。

カリーレは答える。「これは人生のプロジェクトなんだ!」

カリーレが日出ずる国を夢見るようになったのは、キンゼ・デ・ジャウでプレーしていた頃だ。1980年代、サンパウロ内陸部のクラブは、当時日本でサッカーの強豪だった市民クラブの清水FCと提携し、選手交換プログラムを実施していた。

当時、カリーレはブラジルを訪れた選手たちから日本という国についての話を聞いたが、その時点では海を渡る機会はなかった。

実現したのは2012年。コリンチャンスの監督としてクラブワールドカップに参加するためだった。その約2週間の経験は、彼に「また来たい」という気持ちをさらに強くさせた。

「すでに聞いていたこと、想像していたこと、クラブワールドカップでコリンチャンスと過ごした12日間で見たことを、まさに今、ここで生きている。最高だよ」

自身の夢を実現するために、監督は日本の2部のチーム、V・ファーレン長崎を指揮することに同意した。この都市は日本の西にあり、首都東京からは飛行機で 1 時間 40 分。長崎は他の地域よりも気温が高く、老後を穏やかな気候で過ごしたいという年配者を惹きつける。

彼はこの地のシンプルで静かなライフスタイルに魅了されている。彼の妻は自転車で市内を移動する。彼は自宅から徒歩15分のトレーニングセンターまで歩くこともある。

「私が住むことにしたのは、とても伝統的な地域で、とても日本的だ。 塀も何もない小さな家だが、セキュリティの問題も全くない。私の妻は、隣にいてこれを聞くと、必死になってくる『お願いだから、ここから出ようとしないでよ』と」

あちこちに名前が出たり、誰かが声をかけてくれたりすると、自分たちの仕事が認められたようで嬉しいけれど、今のところ、ここを離れることはまったく考えていない。

嘆きと調査

『あちこちで名前が出てくる』のは先週のことだ。ヘルマン監督を解任したサントスはカリーレを望んだが、交渉は進展せず、結局パウロ・トゥッラを新監督にすることで、この話は終わった。

2021年9月から2022年2月まで過ごした監督にとって、サントスは苦い思い出をもたらす。彼は降格争いでは序盤に成功を収めたが、その後、カンピオナート・パウリスタではレギュラーを維持できなかった。しかし、ピッチでのパフォーマンスは最大の問題ではなかった。

カリーレは振り返る。

「もっといろいろなことが起こった。私が退団したのは成績のせいではなく、いくつかの状況に疲れ果ててしまったからだ。金曜の朝に社長に電話して、『こんなふうには働けないから、許してくれ』と言ったんだ」

「選手やスタッフとはとてもいい関係だった。クラブが考えていたより、もっと大きなことができたと思ったから、悲しかった。(クラブ幹部の)ドラセナとはうまくいかなかったんだ。仲が悪くなって、それで会長に辞めると言った」

サントスの後、カリーレはアトレチコ・パラナエンセで21日間、電光石火の仕事をした。そこをクビになってから1カ月余り、彼は中東、今度はカタールに行こうとしていたが、日本からのオファーが舞い込むと、そこに考える余地はなかった。

寿司と通訳は無しで

短期間のうちに、彼はブラジルと日本のサッカーの違いに気づいた。V・ファーレン長崎をJ1に昇格させることはできなかったが(11位でシーズンを終えた)、クラブとの契約を更新した。

「ここで私と戦う記者はいないし、私も誰とも戦わない(笑)。ゲームに負けてもなお、拍手を送りながらその場を去ることになる。彼らは毎日の仕事を理解し、尊重してくれる。もちろん要求はあるけれど、彼らは本当に日々の仕事、クラブでの行いを見てくれている。」

順応性を高め、チームにいくつかの改善策を施しながら、カリーレは現在、日本サッカー界のエリートへの道を目指して戦っている。V・ファーレン長崎は4位につけている、昇格するには上位2チームがそのまま勝ち上がり、3位はプレーオフで決まる。

メンバーの大半は日本人だが、チームには6人のブラジル人選手がいる。DFのヴァウドとカイケ、MFのカイオ、FWのクレイソン、クリスティアーノ、エジガル・ジュニオだ。他にもセルビア人とスペイン人がいる。

トレーニングセンターや試合中、監督は通訳にサポートされる。彼らはスピーチや、試合のハーフタイムにメッセージを伝える際にも重要な役割を果たす。しかし、クラブの外ではカリーレは一人でいることを好む。

「最初の数日間だけ、通訳がクラブの外に同行してくれた。それからは一人で外出するようになった。スマホもとても役に立つね」

日本語のレッスンを受けたこともあるコーチだが、言語習得の難しさを認めている。

「2年以上働いたアラビア語よりは、ずっと簡単だ。ここでは、アラビア語ではなく英語で使われる単語がたくさんある。だから、話すのは難しいが、聞くのはまだ簡単だ」と説明する。

言語と同様、彼にとって食は問題ではない。カリーレは寿司は食べないが、他の様々な郷土料理を楽しんでいる。

「生ものは好きじゃないんだ。焼いたり煮たりするものが好きだね。もちろん他の選択肢もある。ここのレストランはブラジルのそれとはまったく違う。レストランに行くと、すべてが私の好きなように出てくる。生ものが嫌いな日本人もいるので、その人の好みに合わせて出してくれるんだ」。

カリーレはオフを利用して長崎以外の地も訪れている。また、最近では、野球の巨人 - DeNA戦で始球式に参加するなど、違った経験もしている。

「始球式がどれほど大きなものか知らなかった。スタジアムは満員で、試合前にそのために入ったんだけど、終わってから驚いたのは、東京や、どこに行っても、皆が私を見てボールを投げる仕草をするんだ」

「今では普通のことだが、試合直後は怖かったよ。なぜなら、ここらの近所の路上で皆がボールを投げるジェスチャーを真似ていたからね(何かを投げつけられると思った?)」

「でも、こういうことが、結局は私を魅了するんだ。タイトルを獲得できなかったとしても、このような誰もが注目するイベントに招待してもらえた。こういうことが、私たちを感動させ、幸せな気持ちにさえさせるんだよ」

現在49歳のカリーレは、まだ長いキャリアがあることを自覚し、将来に備えている。今年初め、彼はエドゥスポーツディレクターの繋がりでイングランド、アーセナルの仕事を視察した。

時差があるにもかかわらず、同監督はブラジルサッカーにも注目しており、フルミネンセ、グレミオ、サンパウロ、パルメイラスなどを称賛している。

しかし、帰国は今のところ考えていない。

「プロフェッショナルとしては、J1到達以外のことは考えていないんだ。」


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