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シーラになれなかった大人たち

 縁あって『シーラという子』を譲り受けて読んでいました。アルジャーノンに花束を読んだときも思ったことではありますが、洗練された支援者というのは人が生きていくうえで本当に僅かな接点しか持っていないものなのだと痛感します。社会適応を果たした成人はその残りの時間を生きながら悩むことが出来ますが、そうではない人たちにはより多くの時間をともに過ごす支えが必要なのだ、ということがありありと伝わってきます。逆境に飲み込まれつつある人間の可能性を見出すには、著者のようにかじりついてでも人の生き様についていくことが求められること、その過程では支援者といえどもすましてばかりいられないことは、経験的にはよくわかります。

 さて、本書を読んでわたしのこころに留まったのは、実はシーラの回復のあり様だけではありませんでした。実は本書には、シーラのように光を見出されなかった大人が登場します。一人はシーラの父親であり、もう一人はその弟(シーラにとっての叔父)たるジェリーです。父親については、シーラ自身が回復するにつれてそのパーソナリティについての著者の洞察が深まり、ついに逆境を生き延びた人であったという気づきに至ります。シーラにとって父親は一貫して厳しい存在であり、その物言いや配慮のなさにおいてトラウマ誘発的なことも多々あるにはあるのですが、どうもシーラとの心理的な相互交流はなされていたのではないかと思わせる節があります。父親自身も、諦めに抗ってシーラの為に自分自身の生き方を修正を試みて、不器用ながらシーラからの愛着表現に応えようとしているところがあります。これは全くの想像ですが、この父親のシーラに対する物言いは自分の人生観の投影でしょう。本心からシーラを諦めているのなら、州立病院への入院を退けるために身なりを整えて(自分に求められる振る舞いを理解して)裁判所に出廷することはなかったでしょうから。
 一方で叔父ジェリーは最後まで闇の中です。本当のところはわたしにはわかりません。

 さて、やや無理な括りであることを承知で言うなら、逆境にあったという点でこの父娘は共通しており、罪を犯したという点でシーラは叔父と共通する点がありますが、輝かしい発展を遂げるシーラとこの二人を分けたものは何でしょうか。そのことが本書を読んだわたしの着眼点でした。結局のところ、わたしはそれをシーラが①子どもであること、②知性の高いことの2点に求めるに至りました。

 ①の方は別にあれこれ論じるほど複雑な話ではなくて、子どもであり未来があり、つまり教育的な投資の回収率がいいという話なのですよね。また、心理発達の途上であり、かつ退行が社会的に許容されている点も大きいでしょう。やり直しが効く年齢であるという社会的なコンセンサスが成立し得ます。これらはいずれも大人にはないものです。シーラの父親が自らを振り返り、気づかわれたかった気持ちを解き放つ用意があるとして、それらは社会の真ん中ではなく部分社会やカウンセリングルームのような密室で行うしか、実際には選択肢がありません。そしてそれには多くのコストがかかります。社会適応を維持しながらやるには莫大なセッションフィーがかかるし、「頭がおかしい」などとみなされてどうしょうもなく尊厳が傷つけられた後にしか、社会でコストを負担してもらえることはありません。大人が生き直すのは簡単ではありません。わたしはそのことをよしとするつもりはありませんが、とにかく、シーラの父親は逆境を退ける力も環境も得られないまま大人になりました。そして、人の支援を生業とする著者の手によって「彼にも無条件の愛があったなら」という仮定法の世界に落とし込まれるのでした。

 しかし、本当に救いがないのは②においてでしょう。著者が障害のある子どもをシーラと比べて低く位置づけていたとは思いません。ですが、シーラに並外れた知性が潜んでいるとわかったときの高揚、繰り返される「おかしいか/おかしくないか」という論争、そして何よりシーラを州立病院へ送り込みたくないとする原動力の中に、著者が知性というものに並々ならぬ価値を置いているのだろうとわたしは感じました。本書においてもシーラの高い知性は、彼女を擁護するためのExcuseに留まらず、純然たる価値として主張されているのです。そのことに反論するのではありません。しかし、高い知性があったことが著者のシーラに対する関心と情熱を支えた大きな要素であったこと自体は否定しがたいように思います。
 その一方で、叔父ジェリーにその価値が見出されることはなく、犯した罪の性質から言って回復のチャンスは限りなく乏しいか全くないかでしょう。件の事件以前にも犯歴があるようですし。
 別に彼を擁護するつもりはないのですが、年齢にふさわしい振る舞いや思考様式を身につけることが様々な理由で難しいという彼の身に起きた現象は現実にも確かにあります。それは規範ではなく事実です。ジェリーは霊的に邪悪だったのではなく、ある意味で彼にふさわしい知性を欠いていたのでしょう。子どもの頃から知性の制約が見出された人にはそれらしい生き方が提示される可能性がありますが、ジェリーにはその道はなかったのでしょう。彼はシーラのように見出されることはなかったし、おそらく今後もないであろうことはほとんど疑いようがありません。ジェリーだけではありません。著者たちが必死に防衛戦を張り続けた先の州立病院にも、なんの罪もなく自他の制約に雁字搦めになったまま光を当てられない人たちがいることでしょう。

 わたし自身がひねくれた性格なこともありますが、何よりもその州立病院のようなところから患者さんを連れて出ることがわたしの職業的な使命であるからこそ、シーラに光が当てられれば当てられるほど、二人のような「見出されなかった」人たちがどのようにみなされているのか、ということに(シーラの回復のダイナミックスを差し置いて)意識が向いてしまうのかもしれません。わたしとて、病院の中の"見初められた"ごく僅かな人を相手に仕事をしている以上、あまり人のことは言えたものではないのは理解しているつもりです。ですが、著者が絶望の場所(きっとこれは当時のアメリカの事情に照らしてリアルな感覚なのでしょう)とみなす病院の内外に、シーラのように天上の才能に恵まれるでもなく、シーラのように人生を転換する稀有なチャンスにも恵まれなかった人が確かにいるのだということを言わずにはいられなかったのです。

 回復のダイナミックス、潜在能力の解放が支援者のこころの拠り所になることは確かです。虐待は特にそうです。ですが、支援者が夢想するような「救い」がどこにもないことは決して珍しくありません。そのことがわかってしまったとき、支援者は驚くほど冷淡になれるものです。その身も凍るような冷淡さがときに優しき慈悲の顔をして彼らに向けられてきたことを、わたしは知っています。だからこそ、シーラになれなかった大人たちがいることを忘れずにいたいと改めて思いました。


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