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いわゆる境界知能とされる様態について

 去年か一昨年ごろ、起業家の方がセックスワークのうちのハイリスクなものに従事している女性と境界知能とを結びつけて議論を立てているのを拝見しました。その時もこれはまずいと思って筆を取ったのですが、うまくまとまらずにボツ原稿になっています。
 そして先日、特定の言動をとるネットユーザーに対して境界知能呼ばわりする投稿を目にしました。冒頭の件もかなり看過しがたい言論だったのですが、こちらには輪をかけて危機感を覚えました。境界知能は自分に理解しがたい言動をする他者をカジュアルに愚弄するための概念では決してない、ということははっきりさせておかねばなりません。
 そもそもですが、精神医学や心理学の概念は、論理性や科学性を尊重する他分野の人たちからもカジュアルに愚弄されています。最近の例は成功したエリートたちが時折言う「ADHD/ASD傾向」とか「多動力」などの自己言及です。最近ではユングの理論も愚弄されていましたね。そういういい加減な扱いの延長に、境界知能もあります。
 カジュアルに他人に境界知能を当てはめる人たちが境界知能について一応確からしい知識を持っているとは思えませんし、持っていたとしても似たような様態を呈する診断概念や障害と鑑別できるとは思えません。実は境界知能の特徴とされる症状や反応の多くは非特異的なのですが、それらは一緒くたに境界知能の症状と言われがちです。心理検査を受けていれば知的能力障害を含まない狭義の発達障害と誤診されがちです。また、境界知能という脳機能障害は事実として存在しますが、そのどこまでが脳器質によるものでどこからがそれ以外の要素なのかを見分けていくことは容易ではありません(それらを見分ける利益は、支援者から人格障害呼ばわりされることを避けたり、反対に高度な抽象思考で内省や葛藤を強いられたりしないことに求めることが出来ます)。そのプロセスを経ずに人に境界知能という言葉を充てがう行為は「彼らは生まれたときから脳の作りが違う、自分たちとは別の生き物。自分たちはそうならない」という防衛と排除の産物ではないでしょうか。
 ですが、いわゆる境界知能らしさ"とされる"論理的一貫性の欠如や感情の爆発性、他責性などがいずれも後天的にも生じうることを、わたし達は見てきたはずです(具体的にはあげませんが)。また、不誠実さは知能の問題ではありません。難関大学の筆記試験をパスしてきた彼らの理解しがたい言動を一様に「いや実は境界知能だったんだ!」とすることは論理的に破綻しています。それはいみじくも自分たちが弄してきたロジックにおいての境界知能らしさです。また、らしさの後天性を認めるのであれば、自分たちも境界知能になってしまうかも知れない、ということでもあります。そのうえで「境界知能」を振り回すのか。
 たとい画餅と言われようとも、その概念は当事者と支援者を含む人間の理解を助け、引いては当事者が自分自身や社会とうまくやっていくことを助けるものであるべきです。自分の怒りを鎮めるために見下したり、他人を遠ざけて排除したりするための概念ではないと、わたしは主張します。

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