心理援助者を抑圧する装置としてのチーム

 昨日はこちらのセミナーに参加していました。大変刺激的でよかったですね。同時に、『こころの秘密が脅かされるとき』の訳者の筒井さんが解題に綴った葛藤に対しては誰も何も言わなかったな、というのが印象的でした。

 チーム守秘ついては、有事に「率直に謝る」ことも現実的なソリューションとしては極めて的確で、実際にわたし達はそれらを守秘義務と報告義務の衝突に対するソリューションとして活用しています。また「知られたくない」というクライエントに同一化してはいまいか、という岡野先生の指摘もその通りとしか言いようがなく、その意味では心理援助者が個人としてクライエントの秘密を保持するかどうかは根源的な問題ではないということなのかもしれません。

 しかしながらわたしは、以下に述べるような意味でそこに葛藤を見出す者です。それはわたし自身のおかしなパーソナリティと結び付いた認識ですから、多分に自分語りの要素を含んでいます。それでもよろしければご笑覧下さい。


チームにおける合意形成の難しさ

 現実の仕事に当てはめてみれば誰しも心当たりのあることかもしれませんが、守秘義務を共有するチームがクライエントに対して認識や足並みをどの程度揃えられているか、という点があります。例えば、虐待を生き延びた人たちの客観的に見れば不安定な言動が試し行為とか操作的とか、果てはパーソナリティ障害だとか散々に言われている中で虐待の影響を強調する立場を維持することは簡単ではありません。反対に、障害なんだから出来なくてもしょうがないという善意の剥奪が支配的なチームの中で本人の葛藤を維持することは容易ではありません。これは、心理援助者だけがクライエントを正しく理解しているという欺瞞に陥っている可能性も大いにありますが、実際にそもそもチームの中でクライエントに対するコンセンサスを形成維持、修正していくことの難しさを著しています。アメリカくらい人事システムが流動的であればマネージャーが人事権を行使して任意のスタッフを入れ替えることが可能だとは思いますが、日本ではそうはいきませんね。そして実際に要対協などの複数機関が交わるチーム守秘下においては、家族統合を是とする政策志向を内面化した支援者との軋轢が少なからず生じている訳で、こういう足並みの揃わないチームはクライエントにとって「人によって言うことが全然違う」という混乱した体験を生むでしょう。だからこそ、わたしたちは、本来望ましくて正しいはずのチーム守秘に、ときに尻込みするのではないですか。

連携における心理援助

 そもそもわたしは心理職としていかなるバックグラウンドも持たないという意味で(浜内先生の言い回しを借りれば)"100ソーシャルワーカー"という立場の人間ですけれども、連携を絶対是とするソーシャルワーカーにもかかわらず、というかだからこそ、連携の持つ心理援助への負の影響を強調せねばならないと痛感しているのです。それはつまるところ心理的な「連帯責任」とでも言えるものです。
 多職種連携の話として、ひとたびチームでの支援が支援者に内面化されると、クライエントの悩みはすぐさまチーム内に共有されるようになります。しかし、クライエントが多様であるようにチーム内の支援者もまた多様であって、その多様性の中にいるクライエントは意図的に、あるいは本能的に相談経路の独自性を発達させていきます。これは支援者の属性、例えば薬剤師やケースワーカーなど役割に応じた功利的な経路が形成される場合もあれば、話を聞いてくれる人、あなたは悪くないと言ってくれる人と言ったような支援者の心理的なポジションに基づいて形成される場合もあります。後者において重要なのは、クライエントに対する心理的ポジションに相違があるということ、もっと言えばその相談がある支援者にもたらされたこと自体に心理的な意味合いがあるということです。多職種連携を内面化した支援者は、しばしばその経路依存的な相談の持つクライエントの切実なニュアンスを過小評価します。これは連携の話ですがチーム守秘の話でもあるのです。平たく言ってしまうと、クライエントの悩みに個人として向き合わなくてもよくなってしまう、ということなのです。社会的義務を全うした支援者が法的庇護に安んじている対岸でクライエントの"こころが"尊重されているかどうかについて責任を負わないで済むこの状況を、わたしは防衛と言いました。

 また、あくまで経験的な話でしかないのですが、そうやってチームが全体としてクライエントの悩みや葛藤、もっと言えば人生そのものに「自分が責任を持って向き合う」ことをしない支援者の集団になっていく過程を、わたしは強調せずにはいられないのです。わたし達の誰もが「私以外の誰かが対応してくれる」と思うようになるのです。多職種連携と同様に、チーム守秘にも同じ作用を見出さないわけにはいきません。チーム守秘はときにクライエントの「知られたくないことも含めた思いそのもの」を支援者から棚上げする装置として作動します。

こころは守られたのか

 守秘義務が破られた結果として事が全体としてうまく回れば、例えば親に虐待されている子どもの「秘密にしてほしい」という訴えを退けて子どもを首尾よく保護できた場合であれば、秘密を破られた子どもは身体だけでなくこころも守られたと言ってよいのでしょうか。可能性の一つとして示しますが、「次は誰にも言わずにおこう/やろう」と考えたりはしないでしょうか。
 これは某所にもレビューで書いたのですが、おそらくは倒錯なのだろうと思います。すなわち「あなたの気持ちには寄り添わなかったが、結果としてあなたは身体的、法的または社会的に守られた」ということです。メンタルヘルスに課題を持つ当事者という人間総体を支援していると言えばそれはそうなのですが、メンタルヘルスの専門家がクライエントのメンタルヘルスそのものよりもその身体的/社会的/法的な側面を優先的に奉仕しているこの状況が心理援助者にとって倒錯でなくてなんなのだろうとわたしは思います。繰り返しになりますが、チーム守秘というのは極論「それは倒錯ではない、葛藤領域ではない」と心理援助者を抑圧できる装置なのではないでしょうか。その意味において(あるいは反論だったのかもしれませんが)筒井さんの示した葛藤に対して登壇者の誰も何も言わなかった、とわたしは受け取りました。

心理援助者の孤独

 多職種連携を旨とするソーシャルワーカーをしていると、チームというのがいかに野合的な集団で、クライエント理解を共有することが難しいかを痛感します。その中でわたしだけが正しいという独善的な理解に陥っているのではないか、という恐怖がつきまといます。しかしその一方で、及ばずながらチームの中で心理援助者の役割を担う過程で、わたし以外のチームの構成員がみんな「クライエントのこころと向き合う作業から撤退していく/そもそも参入しない」という経験を何度も重ねてきました。そこには心理援助者の絶対的な孤立、孤独がありました。それはおそらく半分は、わたし自身の他者に対する信頼感の欠如に起因しているのだと思います。同一化と言われればそうかもしれません。あるいはわたしの人間不信の逆転移なのかもしれません。しかし、わたしの非熟練心理援助者としての働きは、ほとんどこの「支援者としての心理的孤立」の中で育まれてきたような気がします。あるいはこれも合理化ですかね?でも、自分以外にこの状況に介入できる配置にいない、という独り善がりな切迫感がなければ、わたしは個人としてクライエントの気持ちを受け止めようとする支援者にはならなかったような気がします。それとも、洗練された理援助者というのはもっと健康的にクライエントの気持ちを受け止めて、スマートにチームと心理的負荷をシェアできるものなのでしょうか?「次」が生まれないように首尾よく回復していく過程を信じてチームや他者/他機関に背中を預けられるものなのでしょうか?

おわりに|祝福された支援者

 岡野先生は心理援助者が外部に開かれた存在である必要性を主張していました。きっとそれが正しい心理援助者のあり方だと思います。他者と世界を信じられない地点からスタートした不健康なままの支援者がいるべき場所ではないのかもしれません。すべてを自分の言動と関連付けようとする傲慢さも嫌になります。しかしそれでもわたしは、クライエントのこころの作業は心理援助者という第二者を経由してしかチームという第三者に接続することはなく、したがってチーム守秘もクライエントにとっては心理援助者という個人を経由するものとして理解するのがいいように思います。それは個人と社会の板挟みになるソーシャルワーカーの本旨にも重なりますが、心理援助者もまた、クライエントの思いに同一化しながら同時にチームとの間のバッファあるいはフィルターとして機能する、逃れられない孤独と葛藤を抱えた稼業なのではないかと思います。

おしまい


 

 

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