記事一覧
『こころの秘密が脅かされるとき』を読んでいますが、フロイドが誘惑説を放棄した背景について、斎藤学が「フロイトを責めるのは酷というものだ」と書いていたことを思い出しました。社会が人間存在を受け止めるのは難しいという悲観に苛まれます。
いわゆる境界知能とされる様態について
去年か一昨年ごろ、起業家の方がセックスワークのうちのハイリスクなものに従事している女性と境界知能とを結びつけて議論を立てているのを拝見しました。その時もこれはまずいと思って筆を取ったのですが、うまくまとまらずにボツ原稿になっています。
そして先日、特定の言動をとるネットユーザーに対して境界知能呼ばわりする投稿を目にしました。冒頭の件もかなり看過しがたい言論だったのですが、こちらには輪をかけて危
ソーシャルワーカーとカウンセリング
ソーシャルワークの教科書を紐解くと、ソーシャルワーカーの仕事としてカウンセリングが挙げられています。また、英米のソーシャルワーカーの文献を渉猟していると、そこにはソーシャルワーカーがカウンセリングをしている記述に遭遇します。英米での実践はともかく、日本においてさえ少なくとも理論的にはソーシャルワーカーの職務の一つとしてカウンセリングが位置づけられているようで、標準的な教科書にもカウンセリングについ
もっとみる福祉政策の当事者になる覚悟はあるか
一つ前の記事で専門職が社会統制の手段となることを国家から期待されている、という話を書きました。書き出しに迷って眠っていたこの記事にちょうどそのあたりのことが逆サイドから書いてあったので、この機会にお出ししようと思います。本旨は「福祉専門職に政策の手段として働く覚悟があるか」ということです。タイトルままですね。
日本の福祉政策に不備は多い
日本の福祉政策について管見の範囲で申し上げるなら、使
社会が心理職に対してソーシャルワークを期待しているように見えるなら、それはソーシャルワークを治安維持の手法とみなす社会の見方にコミットしていると白状しているようなものだ。
愛着を持たない人にとってセルフプロデュースは生存戦略なんだけど、愛着を持てる人にはそこに自己受容が絡むから話がややこしいんだろうな。
わたしがしたことについては釈明の機会を与えてもらえたにもかかわらず、わたし自身がされてきたことについては弁明なり釈明なりの機会を設けてこなかったので、わたしは自分が思うよりずっと冷淡な人間なのかもしれない。
フロムを読むときが来た…!(ボツ原稿を横目に)
依存としての社会批判
先日の記事で「葛藤には斥力が働いている」と書きました。斥力とは離れていく方向の力、つまりは葛藤しないように、葛藤から降りるように差し向ける力が葛藤に対して働いていると考えます。そのことについて私なりの見解を書いていこうと思います。例によって個人的見解です。
葛藤とその自然状態
葛藤とは両立し得ない二項以上の対立です。これを人のこころに当てはめると、2つ以上の両立しない考え方、生き方というこ
ちゃんと生きていくって大変だ
※本稿はただの自分語りです。
最近になって財形を始めました。わたしの人生史においてはかなり画期的な出来事です。自分の将来のためにすることだからです。今まで避けてきた自分の将来とようやく向き合うことになったあり方の一つの結果ではないかと思っています。
どうやって生計を建てていくかということそれ自体は10代の終わり頃から考え続けてはいましたが、あまり愉快な話ではありませんでしたね。どうやったら
書いてはボツ、考えてはボツを繰り返してnoteの下書きに大量の残骸を残しつつ、結局は読後評だけにしてアップすることにしました。何かを書くのは難しいですね。