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まどろみの中の「イノセント」

多分、夢だったと思う。いや、夢に違いないと思っている。

それは、約30年以上も前にごく平凡にやってきた朝。目覚めたときのことだった。確かにそれは良く見慣れた光景で、まぶたが開いて、いつもの見慣れた天井がそこにある。

良く寝たな、と思いながら、ボーっとしている朝のまどろみのひと時。

自分ではそのまま起きたのだと思ったが、恐らくまた眠りについたのだろう、「これは夢」だったのだ。今までそう思うことにしてきた。

現実と夢の、あるいは、意識と無意識でのボーダーラインがはっきりしない朝のまどろんだ状況だったので、今でも釈然としないのだけれど。

黒と白が混ざり合って、グレーの色合いが微妙に動きあっている、そんなスローで真っただ中のできことだった。

夢の中で目を開けたのか、現実に目を開けたのか、その時は分からなかった。突然光の太い柱が寝ている自分の頭からつま先まで突き抜けている。身体全体を覆うその光の柱。その中に自分はいた。

夢だと思っている自分。現実だと思っている自分。強いていえば、まさに現実の光景だと感じてしまうほどで、そう思うと、その瞬間から若干の恐怖心が沸き起こった。

頭からつま先まで太い光の柱が突き抜けて、カラダは動かず、声も出ない。まさに金縛り状態で眼だけは見開いていた。

状況を必死に把握しようとしている自分。何とか、意識の中で、「これは夢」と言い聞かせたが、カラダは動かず、声も出ない。抵抗はやめよう、そう思って、あきらめるままに光の柱の中で身を任せたときに、その声は確かに耳元で聞こえた。

「イノセント」

女性の低い声で。

「イノセント」・・・・・???

まだ、当時はミスターチルドレンの「イノセント・ワールド」が発表されてない、いや発表されていたかもしれないが、聴いてない(笑)

とにかく、心のどこかで「イノセント」という言葉を座右の銘にしていた記憶なんかことさら無い。思っても、考えてもみなかったので、意表を突かれたその言葉を頭の中で反復してみた。

い・・・「イノセント」・・・・「innocent」・・・???

人生の中でこの一回きりの、酸素不足のようなまどろみの中の囁きは、それから、仕事の節目、いや、人生の節目で意識することとなった。

経営者が判断に困って、占星術師に相談するような感覚と一緒なのかもしれない。何かしらのターニングポイントで、なぜか、この「イノセント」という言葉を意識するようになった。

「innocent」の和訳をみると・・・

無罪の、潔白な、(…を)犯していないで、汚れのない、純潔な、無邪気な、純真な、あどけない、お人よしの、単純な
天真らんまんな人、おめでたい人、純潔[清浄]な人、小さな子ども,幼児。

といった意味がある。

20代初め。確かに自分には、すでに子供のような無邪気さはとっくに無いと思っていたと思う。必要ないとも思っていただろう。綺麗ごとだけじゃ生きていけない、そんなことを思っていたに違いない。

だから・・これは、警告か、神様からのお告げか。

和訳どおり、何事においても楽観的な自分は、確かにおめでたい人間でもあるし。

よくわからない。なんで、「イノセント」なんだ。

罪を犯して警察に追われていることもない、しかし汚れはあるだろう。無邪気なだけでこの社会を生き抜いていくことはできないなんてことは、誰でも感じているに違いない。

「おい、おまえ、それは本当か?純粋な気持ちからなのか?」そんな感じで語りかけてくるような、自分と繋がっている何者かが嫌味たらしく投げかけてくるような、そんな感覚をともなった「イノセント」の反映があった。

その後、何年もこの「光の柱」のことも、「イノセント」という女性の声も忘れていた。しかし、今でもはっきりと声の肉感は耳の奥に残っていて、何年経とうが、過去を辿ればいつでも思い出せる。

経営的な判断や自分自身が仕事に関わるたびに、「喜んでもらう」という意識から針が降り切れて、「収益」を意識しすぎたときに、何やら、この「イノセント」の言葉がカラダのどこかに引っ掛かる感じがすることに気づいた。

資本主義社会という貨幣経済の真っただ中において、極まれに、この「イノセント」の言葉が引っ掛かるのだ。

引っ掛かって、流されて、気づくと、感謝される仕事に行きついたことは偶然かもしれないが、この「イノセント」がいつも一緒にいてくれたおかげなのかもしれない。

今は簡単に知りたいことが知れて、得たい情報は瞬時に得られる。

これでもか、と、自分に加え続けて、得ていくことと、それと同じように、積み重なった汚れをはぎ取っていくことも大切なんだという響きをその「イノセント」という言葉の響きは持っていた。

特に最近、まだまだあるチリやほこりを捨てて、純真無垢な意識とリンクする時間が情報収集の時間と同じくらいに必要だとヒシヒシと感じ始めた。

もしかしたら、「得る」ことよりも、「捨てる」ことがより重要なのかもしれない。

こんな思いで、このnoteを初めてみた経緯もある。

「イノセント」(innocent)という言葉の語源は、ラテン語の「innocens」にあるそうだ。これは、「in-」(否定を表す接頭辞)と「nocere」(傷つける)の合成語で、直訳すると「傷つけることがない」という意味となる。

「傷つけないように生きる」・・・・なんか、綺麗な言葉だ。

しかし、人は知らないうちに人を傷つけてしまうこともある。だけど、自分が傷つけられて、それがわかることもある。

そして、それでも、「傷つけないように生きる」ということがこの夢?からの自分へのメッセージなんだと勝手に思い込んでいる。

先日、だだっ広い公園に行ってきた。そこには樹木が茂り、花が咲き、風に負けないように小鳥が飛んでる。お互い傷つけることがない自然の中には「イノセント」が沢山隠れている。

自然界には無駄な殺生は無い。しかし、他の生命を食して自らの生命を維持していくという自然界のこの矛盾はどうだろう。

自然界には、私たちが「矛盾」と感じることもあるが、それは自然界が複雑で多様なシステムで構成されているからであり、一見矛盾しているように見えることがあっても、実際には調和的なバランスを保っている。

生命が他の生命を食して生命を維持する自然界の仕組みについては、「食物連鎖」と呼ばれている。

食物連鎖は、ある生物が別の生物を食べ、その生物が更に別の生物を食べるというように、生物たちが互いに関連している食物の仕組みを表す。

例えば、草食動物が草を食べ、それを捕食する肉食動物がいるというような食物連鎖がある。

草食動物は、草を食べて栄養を得ることができるが、同時に草は、大気中の二酸化炭素を吸収して酸素を放出することで、地球上の生命を維持するために重要な役割を果たしてる。

また、肉食動物が草食動物を捕食することで、草食動物の個体数を調整し、生態系のバランスを維持する役割も果たしているというのだ。

このように、自然界の中での生命の摂取や捕食は、一見矛盾しているように見えるかもしれないが、実際には生態系のバランスを取り、生物たちが生き残るための必要な仕組みとなっている。

生命を維持する自然界の仕組みはエゴを捨てて、「傷つけないように生きた」結果なのだろう。生命が生き残るために、必要な仕組みはエゴを捨てた完全なる「イノセント」なのだ。

「イノセント」を捨てたら、一体何か残るのだろうか。


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