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哀しみの果てに 

夫が希少癌で亡くなって半年が経とうとしている。
地獄のような毎日。

お葬式が終わり数ヶ月で遺族は立ち直り、笑顔で
前を向いて夫の分まで生きていく、なんてドラマのようにはならない。

Xで#死別 とすると亡くなった愛おしい夫や妻を想い何ヶ月も何年も
どこにもだせない言葉を吐き出している人がたくさんいる。
辛い、哀しい、苦しい。耐えられない。

「日にち薬だから、いつか哀しみが癒えるから」と他者はなんの根拠もなく
簡単に言うけれど、ないからそんな薬。
日を追うごとに、雪が降り積もるように心身を覆う哀しみ。

「亡くなった夫が一番辛くて悲しい、だから泣くな」
身内はそういって叱咤激励する。

夫が一番悲しい? 
夫がどれだけ無念だったか、生きたかったか、
人に言われるまでもなく、ともに一緒に頑張ってきたから知っている。
悔しさも辛さも痛さも全部、目の前で見て感じて共有して必死に
命をつなごうとしてきた。
頑張って頑張ってきた二人の暮らしを知ったような口で言わないで。

夫を失い半身が削られ息をするのもやっと。
脳が麻痺しなければ衝撃に気がおかしくなっただろう時間を経て、
次第に夫のいない現実が、恐怖がじわりじわりと押し寄せてくる。

二人にしかわからない最期の時間。何度もフラッシュバックされる。
助けてあげられなかった、もっと優しくすればよかった。
眠れない、食べられない、動けない。
哀しみは膨大なエネルギーを消費する。

半年も経つと周りから
「少しは元気になった?」 と言われる。

返事をするのも億劫なのでスルーしている。
元気のもとである夫がいないのにどうやって元気になるのか。

泣くというレベルではない。慟哭する。

自分のどこからこんな声が出るのかと思うほど大声でわめき
頭を頬を叩き、夫を救えなかった自分をとことん責める。

この前まで一緒に笑い、食べ、たわいもない話をした夫がいない。
無音の部屋で夫のいない空間で生きている意味が全くわからない。
ここにいる自分だけがなぜ生きているのか。

夫と暮らしてきたこの部屋で途方に暮れて子供のように泣く。
毎朝、夫の名前を呼び絶望する。
どこにもいない夫の姿、写真で笑っている夫を見てただ哀しく苦しい。

夫の体温が夫の声が夫の足音が、笑い声がおならをする音が全て愛おしくて
会いたくて心が悲鳴をあげている。

喪失の哀しみは深まる一方で、決して軽くなんてならない。
愛情の深さと同じなのだから。

こんな生き地獄、哀しみの果てに一体なにがあるのだろう。


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