シューマッハーカレッジへの旅の記憶の記録(2024.4.20-25)、そしてこれから
■メンター現る
サティシュ・クマールさんに強く興味をひかれたのは、ちょうどコロナの一件で、今まで当たり前だと感じていた日常を変えることを余儀なくされはじめた頃だったと思う。
彼の思想や、語る言葉が、どれも共感できるものであったと同時に、こんな世界っていいよな~と思うイメージがそこから連想されて、それがわたし自身が見てみたい世界と重なる感じがそこにはあった。
たとえば、彼はソイル(土)、ソウル(魂)、ソサエティ(社会)という視座で自分・他者・社会・地球、の関係性や幸せを考えることを提唱している。
「まだまだもっともっと」と追い立てられながら、幸せを「追求する」のではなく、私たちの周りにははすでに幸せが「ある」という視点にたって、自分自身、他者との関わり、社会のあり方、そして自然との関わりをを見つめることを教えてくれている。
そういう中で、スロー、スモール、シンプルという言葉で、ちいさくはじめること、ゆっくりすすむこと、本質的に生きることの中に幸せを見出してゆくことであったり、ハンド、ハート、ヘッドという言葉で、體を使ってつくり、心で感じて、頭で考えて日々生きることがアートであり、誰もが特別なアーティストなんだという生きかたを示してくれている。
そして、それらを「愛」という表現によって、あらゆるものを受容し尊重しながら、共存共生していく思想を体現してゆく「道」を説いてくれている。
30代半ばくらいに、自分の感じていた違和感が大きくなって、40を前に自分の生き方をシフトさせるべく舵を切ったわたしにとって、これまで
思考錯誤してきたいろいろなものがつながってゆくような、それをより深めてくれているようなそんな氣持ちにさせてくれたのがサティシュさんという存在だった。
■おとなのための小さな学校、シューマッハーカレッジ
そんなサティシュさんがつくった学校があるというのを知り、いつか行きたいとずっと思っていた。それがイギリスのデボン州にあるシューマッハーカレッジという学校。
物質的な繁栄を目指してきたこれまでの経済ではなく、エコロジーとエコノミーが一体のものとして、自然と調和した、生きがいや幸せをより深く感じる生き方、そして経済のあり方があるという考え方を示した、経済学者E・F・シューマッハの名前と思想を受け継いで生まれたのが、シューマッハーカレッジだ。
自然や他人を搾取するのではなく、人間もまた自然の一部なんだということ、そして自然と調和しながら、生きがいや幸せをより深く感じられるような生き方を学ぶ学校。
誰かの期待に沿って生きるのでもなく、なんとなくそういうものだからということに流されるのでもなく、本来の自分自身で生きることを思い出してゆくような時間。
ただ知識として学ぶのではなく、暮らしと学びのつながりを実際に体験体感しながら、日常の中で自然との調和や幸せを見出す知性と感性を育んでゆくコミュニティ。
どうやらそんな学校があるらしい。そんなことを知って、いつか行ってみたいし、何より「生サティシュ」に会ってみたいという思いが強くなっていった。
■エコノミーとエコロジー
サティシュさんは、エコノミーとエコロジーというものを、その言葉の語源からこんな風に紐解いている。(その語源からその本質を紐解いてゆくところもまた魅力の一つだと思っている)
エコとはもともとギリシャ語のオイコスから来ていて「家」を表している。
家とは一人ひとりが暮らす場でもあり、同時にそれは社会でもあり、地球そのものも「家」と言える。
エコロジーはオイコス(家)+ロゴス(知識)であり、家のことをよく理解するということ。だからエコロジーとは地球や社会そして日々の暮らしがより良い状態であるために何が必要なのかを理解することが本来の意味だ。
そしてエコノミーはオイコス(家)+ノモス(運営・管理)であり、その家がより良い状態であり続けるように営んでゆくものというのが本来の意味になる。
もともと経済とは「経世済民」という言葉から来ていて、経は治める、済は救うという意味を持ち、「世を治め、民を救う」ということとも、つながってくる。
だからエコロジーとエコノミーというのは、本来一体であるものなんだという考えが、こうやって紐解かれて聴くと、自然にすっと腹落ちをしてくる。
同時に、いかに今、エコノミーが本来の姿からかけ離れてしまっているのかということに、虚しさみたいなものが湧き上がってくる…
■どっちつかずな自分にモヤモヤ
そんな風に、サティシュさんの思想にとても共感はしながらも、実は同時にどこか体現しきれていない自分にモヤモヤした感覚もあった。
わたし自身、VisionaryWorkという言葉を使いながら、「自分も誰かも世の中も幸福感が増えてゆくようなイメージにつながる生き方・はたらき方」を、自分も含め一人でも多くの人がしている世界を見てみたいと思ってずっと活動してきた。
でも一方で、そういった活動は、ともすれば人間にばかりフォーカスされたメッセージ、たとえば「自分の幸せ、誰かの幸せ、世の中の幸せ」みたいなことばの中に、我々が暮らす地球や、人間以外の命が含まれていない違和感もまたずっと感じていた。
にもかかわらず、人間以外の命、そして地球のウェルビーングでありウェルドゥーイングを考えてゆくエコロジーは、わかっちゃいるけど日常の利便性や快適性の前に、どうしてもエコではない選択をしている自分がいて「こうあるべきだよね」って思っていることが出来ない自分への後ろめたさを感じてもいた。
そしてその狭間で、どっちつかずな自分にモヤモヤしたりもしていた。サティシュさんに共感していると言いながら、でも出来てないじゃん自分…
■シューマッハーカレッジは美しかった
そんな憧れと、共感と、会えるワクワクと、抱えていたモヤモヤを携えて、シューマッハーカレッジに行く機会が訪れたのは2024年の4月、そうついこの間の話だ。
「生サティシュに会える!!」
今回の機会を聴いてほぼ即答だった。この円安の最中でのイギリスへの旅は決して安くはないし、日程の中には要調整の予定もあった。
でも本当に行きたいと思うものを前にした時に、「時間がない、お金がない、今じゃない」というセリフは頭の中からすべて消し飛んでいた。
イギリスまでのフライトは約13時間、エコノミークラスの3席の窓側に座った私は、隣の方の臭いに打ちのめされながら、フライト中の「家」である自分の座席をよい状態であり続けるように営めないモヤモヤと、その先にあるワクワクを胸に、なんとか耐えきった。13時間…。
さて、シューマッハーカレッジに訪れてみて最初に思ったこと、それは本当に美しい場所だなっていうこと。
「美しい」にはいろいろな視点がある。緑豊かな空間と石づくりの建物、そこに注ぐ光が織りなす美しさは、心をたくさん満たしてくれた。
そして、すごく知的好奇心を刺激される学びがあり、地球の恵みと人の思いを感じる美味しいごはんがあり、束縛や強制をされない(それゆえに主体性が問われるが)自由さの中で互いが自然と助けあうやさしさがあった。
そういったこと一つひとつの中にも、そこにいる一人ひとりの中にも「美しさ」を感じた。
シューマッハーカレッジの最初の授業は、地球は一つの生命体であるというガイア理論を提唱したジェームズ・ラブロックさんの授業だったそうだ。
そして、今回のプログラムの中でも再三「地球=ガイア」というキーワードに触れていたのだが、自分がいるこの場所は、まさにあらゆる命が幸せで「地球(ガイア)の幸せ」を感じるような場所だと思った。
■半径5mからスロー・スモール・シンプルに
「そうなんだ!これなんだ!」そう思った。
無理をして我慢をして何かをするのではなく、自分が根差して生きて暮らす場所を、自分も誰かも世の中も地球も幸せで、人間だけではないあらゆる命がイキイキといきづく、そんな場所にすればいい。
そして、その時の起点は「エコでなければならない」ではなく「あ〜こういうのいいな〜」っていう感覚。
地球のこと、自然のこと、そして自分自身のこと、幸せに生きるということ、それらはどういうメカニズムを持っていて、どんな物語を語っていて、どんな音を奏でているのか、そんなことをゆっくり学んでゆくことで、自然とそれらが愛おしくなってゆく感性が育まれてゆくような、そんな時間と場があったらいい。
目標値をつくって、タスクのようにするエコではなく、その美しさや不思議さや面白さに目を向けながら、そういったもたらしてくれる様々な恵みに感謝しながら共生してゆくような感じがいい
サティシュさんが、「誰もが自分の住む場所を大切にすれば、それは地球が大切にされているということだ」と言っていたのを何かで聴いたことがある。それは義務的な発想からは生まれない感じがする。
まさに自分の半径5mからはじめてゆく、「いい感じの場」づくり
無理な感じがなく、「あ〜こういうのいいな〜」を自分の周りに増やしてゆく。そのイメージの解像度が、シューマッハーカレッジによって上がった感じがした。
ハンド・ハート・ヘッドの三位一体での学びで、オイコス+ロゴス=エコロジーに対する理解を深めながら、スロー・スモール・シンプルに、自分がいいなと感じることを体現していけばいいんだ。
それを体現しているシューマッハーカレッジという場所に自分自身が身を置いたことと、そしてサティシュさんと直接会ってそのエネルギーに触れた体験はほんとにほんとに大きかった。
■「いい感じの場」
場とは、狭義で言えば「人と人との関わりが生まれるところ」であり、広義でいえば「あらゆる命が関わり合っているところ」だ。
あらゆる命、それは人間だけではない、あらゆるもの、そして地球もまた一つの生命体。
つまり、場とは自分の目の前にある日常でもあり、と同時に地球でもある。そして自分の半径5mがいい感じになっていくということは、同時に地球がいい感じになっていく可能性にそのまま繋がっている。
狭義でも広義でも、いい感じの場とは 「よろこび」と「つながり」と「ありがとう」を同時に感じることを増やしていくことなんだとあらためて思うし、それがウェルビーング(ある)でありウェルドゥーイング(する)なんだと思う。
この旅によって自分の中の「いい感じの場」のイメージがアップデートされた。
■よろこび・つながり・ありがとう
よろこびを感じるとは、好き・楽しい・面白い・嬉しい・そして美しいに添っていきること。それを増やしていくほどによろこびは増えてゆく。
つながりを感じるとは、自分と誰かと世の中と地球とのつながりをより大きな時間と空間の視座で思いを馳せながら、自分の半径5mにそれを見出してゆくこと。
この「自分も、誰かも、世の中も、地球も」いい感じにしていこうと考える発想を、近江商人の三方よしをもじって、わたしは「四方よし」と呼んでいる。
ありがとうを感じるとは、このつながりのおかげで自分はよろこびを感じられていることに、感謝の氣持ちが湧いてくること。
アートとは、感じた「よろこび・つながり・ありがとう」を表現してゆくことなのかもしれない。
そしてその表現は「生きる」中で行われる様々な行為がすべてアート。これがきっとサティシュさんが言う「アーツ・オブ・リビング=生きるアート」なんだ。
■そう思えない時も、それでもきっと大丈夫。
とはいうものの、人生では、そんな風には思えない困難が降りかかる時も、もちろんあると思う。
あらゆる選択肢が閉ざされてゆくような、何をどうはたらきかけても何も変わらないような無力感や虚無感、自分だけが振り回されているような徒労感、味方が誰もいないような孤立感みたいなものを感じることもあると思う。
そんな時、思い出したいのはガンジーさんの「見てみたい世界の変化にあなた自身がなりなさい」ということば。
そして、サティシュさんの「スロー・スモール・シンプル」という考え方。
それは自分が「変化の源」になってゆく一歩を踏み出しやすくしてくれるような、そんな氣持ちにさせてくれる。「それなら出来そう!」みたいに。
外に現れている世界は、自分の内側が現れた世界だ。それは自分のせいとか自分が悪いとかそういうことではない。 自分が、自分の外側に起きていることをどう見ているのかが全てだということ。
意識を向けるべきはまず自分の内側を整えて愛で満たしてゆくこと。それが外側を創り出してゆく。
観方(認知)が変われば、自分のモードが変わり、トーンが変わり、そしてそれが外側に作用し現実が変わってゆく。
サティシュさんがガイドしてくれた朝30分の瞑想で、彼が何度となく唱えてくれたことばに、心がすっと軽くなる。
何が起きても、それでもきっと大丈夫。
■湧いてきているつくりたい場のイメージいろいろ
可能性がひらいてゆく場。自分自身の可能性、一人ひとりの個性が持つ可能性、人と人が織りなす共同体の可能性、そしてあらゆる命が共生する共同体としての可能性、そんな可能性がひらいてゆく場が、そこかしこに生まれたら本当に素晴らしいと思う。
自分の中で「いい感じの場」のイメージがアップデートされている中で、今出てきているイメージキーワードもここに一旦書き記しておこうと思う。
これはおそらく、どんどん解像度があがり、アップデートされてゆくと思うが、今はこんな感じ。
前に、noteにこんなことを書いたが、そのイメージとももちろんここに重なっている。
今、「ガイアシンフォニー」鑑賞会もひらいている。
これもまた、わたしたちのオイコス(家)のこと、そして様々な魅力的な人たちが、受け継ぎ・探究し・表現している叡智を学ぶ機会になっている。
今回の旅で、たくさん感じたことを、わかちあうような試みをいろいろ考えてやっていきたいとも思っている(何が生まれる?!ワクワク)
さあ、これからまた旅を続けてみようかな。愛と共に。
■2024.5追記【動画】
体験したことの一部を1時間くらい話してみました。よかったら観てみてくださいね。
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