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紐解くことで辿り着く世界へ

価値ある自分

価値を示すことに躍起になっていた頃があった。
価値を示せないことがどうしようもなく恥ずかしく感じていた頃があった。
価値を示せないかもと感じたら、とにかく示せると思えるまで頑張るか、さもなくばそこから離れるを繰り返している頃があった。
  

今は、価値を示すことに執着をしていない自分がいる。
もちろん今も、自分が何か貢献できたとかんじたり、喜んでもらえたり、感謝を向けられたりしたら嬉しいし、それが出来なかった時は悲しかったり悔しかったりもする。

  
でも、それに躍起にならず、出来なくて恥ずかしいと思わず、自分を追い詰めたり、逃避したりということはなくなった。

こんな自分だから

「人は誰も自分と一緒にいたいと思っていない」と無意識にはめていた思考があった。その思考は「一緒にいたいと思われるには、それ相応の理由が必要だ」という思考を生んでいた。
  

一目置かれたい、必要だと言われたい、すごいね、やっぱり違うねと思われれば人は一緒にいてくれる。


本当はそんなこと関係なくて、人はただ生きているだけで無条件でつながっていることを感じたいのに、そんなことはあり得ないという思考に支配されている自分がいた。

思考の産物の呪縛

それは「痛み」の体験がつくりだした思考の産物で、でもそれがゆえにパターンのように、価値を示し、人から気に入られようとする、嫌われないようにする、etc.

  
そのためにどこまでも自分を追い詰めたり、どこまでも自分を隠したりしていた…。


今もその氣持ちが自分の中にいることは感じるが、それは私そのものではなく、私の中に生まれた思考の産物だということを知っているし、そうだと普通に思えている。

呪縛をほどく

こうした変化のきっかけに1つの学びがあった。
その学びは、痛みの体験がつくりだしたメンタルモデルという思考の産物が、そういった状態を生み出すという「構造」について。

  
その学びによって、これまでの自分のパターンのように繰り返していた行動が、スルスルと紐解けるような感覚を体験した。

  
「あぁ~…」思わず声にならない声がもれた。隠された秘密を知ったような、自分だけではないと本当に思えた安堵感のような、いろいろなものが変わっていく期待感のような感覚とともに。


とはいえ、長年体に染みつけてきた感覚は、俄か(にわか)には拭えない感じはあったけれど、それでも起きていることを眺めるように観ることが出来るようになった。

2つの思考

思考には、本当の私の意思から生まれているものと、出来事や言動など外側で起きることに反応するように勝手に発動してしまう思考とがあることを知った。


その思考の違いをつぶさに見られるようになった時、はじめて自分の中で「選択」できる感覚が生まれた。

  
後者の思考が、パターンのように行動を生み出し、それが現実をつくりだしているが、その思考が生むパターンに氣づいて、止めたり変えたり手放したりするのが、前者の”本当の意思”から生まれている思考だ。

 
「痛み」を避けて生きても、本当の「意思」を体現しても、どっちを生きてもそれは別に構わない。どちらが正しいでも間違っているでもない。自分がどう生きたいか、ただそれだけなんだ。真の自由とはそういうことだと知った。

これまでの葛藤が

こんなプロセスの中で感じていたこと、そのプロセスの途中で得た学び、見えている構造、そんなことをわかちあうことが、自分のライフワークなんだと次第に思うようになってきた。
  

純粋にその探求は好きだし、それによって解放されたり、自分のエネルギーがどんどん湧いてきて楽しさを感じながら活動する人たちと一緒にいるのは楽しいし、その姿を見るのが嬉しい氣持ちもある。

  
そういうことを、紐解き伝え分かち合っていくことに、苦を感じることはほとんどない。そう、わたしにとって愉しくて、楽で、得意なことでもあり、誰かがそれを喜ぶことが多いと感じられること=VisionaryWorkなんだ。
  

自分はどんなことをこれからこの世界で体験したいんだろう?どんな光景を見たいんだろう。今、言葉になっているものはあるにはあるけれど、でもその言葉に縛られることなく、旅を楽しんでみようと思っているいまここ。
  
#メンタルモデル
#痛みと願い
#VisioanryWork
#GIFTbyGIFT

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