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キングダムと人類・社会のアップデート

今回はずいぶんと、ものものしいタイトルになってしまいましたが…。
今この時期だからこそ書けるし、書こうと思ったことを少し。

新型コロナが、私たちの当たり前と感じていた日常に、大きな変容をもたらしていますよね。「このことから何を学ぶのか?」と問う自分と、「いい加減にしてくれよ」と当たる先の無いもどかしさにいらつく自分とが常に交差しているような感覚です。
  
そんな最中にキングダムの57巻が発売されました。マンガにしても本にしてもまた映画なども、私の場合、今の問題意識や関心事や、大事だと思うことと紐づけながら読む感覚があるので、その時によって同じストーリーのはずなのに、違うものを読んでいるかのように思うことがあります。
  
今回、そういう意味で響いたのが、623話と、624話の、李牧が龐煖との出会い、そして求道者について語る回です。

求道者

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李牧は、龐煖が求道者であると言い、そして求道者とは”人の救済”の道を求めるものだと語ります。
  
さて、人の救済とはいったいなんのことなのでしょうか?

李牧のいる時代は、何百年もの戦乱が続く世です。人と人とが争い、殺し合い、その過程の中で憎しみの連鎖が生まれ、その戦乱は終わることの無い人の世の宿命かのように皆が感じている世界です。

争いを繰り返す人の世の苦しさと愚かさを憂い、どうにかこれを救えないかと真剣に考えた賢者たちの集団。それが求道者の始まりだと李牧は語ります。

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ここに答えは無い

求道者たちは、人々の願いとは裏腹に拡大していく争乱の世に”道=人の救済”を探しても、そこに答えは無いと断定します。なぜなら情がある限り苦しみの世は変わらぬからだというのです。

誰かが誰かを、また何かを大切に思う時、それが強ければ強いほどに、その大切な誰かまたは何かを失う悲しみや、奪われる苦しみ、そしてそこから生まれる怒りと憎悪が必ずある。
  
人を思う美しさが、人を憎む醜さに変わり、誰かにとっての正義は必ずしも別の誰かの正義ではない。争いとは正義と悪がぶつかる構図ではなく、そこにあるのは、一方の正義と他方の正義のぶつかり合い。
  
その次元で、人の救済を探究してもそこに答えはないと賢者たちはとらえたのです。

次元を変えるモデル

私は、アインシュタインのこの言葉が好きです。

”No problem can be solved from
            the same level of consciousness that created it”

(問題はそれがつくられたのと同じ意識レベルでは解決することは出来ない)

そして求道者たちは、人の世を離れ、深山に籠り、ただひたすらにその道を探したのです。しかしそれは人の世を諦めたのではなく、違う次元と繋がることで救済の道を探るために。
  
求道者たちは、まず自分たちが人を超える”摸”を示そうと考えます。
摸を示すとは、自らが新しい次元の体現者となって、「人が救われる道とはこういうものだ」というモデルになるということです。

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求道者は、人類の中で誰か一人でも”摸”を示すことが出来ば、その変化が全体に起こり、皆が一斉に救済の道へと進むと考えています。
  
それはユングの集合的無意識であったり、ウパニシャッドの梵我一如にも通ずる感覚もしれません。または100mで9秒の壁を誰か一人が越えた瞬間に続々と9秒台が登場するような感覚なのかもしれません。

未来の常識は、今の非常識という宿命

コペルニクスが示して以後、地球の周りを太陽が回るのではなく、太陽の周りを地球が回っていることが常識になったように、新たな摸は次の世の常識となっていくんだと思います。
  
でも、こういう話は多くの人が「なんのこっちゃ?」という感覚になる宿命を持っているとも思います。

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我々が、常識だと思っている視点、疑うことなく従ってきた考え方、今日と同じ明日がいつまでも続くという現状維持バイアスという錯覚。それらがその新しい摸の受け取りを拒否することもまた、宿命なのかもしれません。

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現代の求道者に注視せよ

さて、話が突然飛躍しますが、この新型コロナについていろいろと思い巡らす時に、私はこの李牧が語る”求道者”の話と何かシンクロするような感覚があります。

この状況は、人類がこれから直面する大きなシフトの序章だという感じがしてなりません。自分が十分そこに解決をもたらすことが出来ていないくせに発言している気持ち悪さを自覚しつつ語れば、貧困・格差・加速度的な環境悪化に歯止めのかからない経済合理性最優先の世界・・・

李牧たちがいる、争乱の世とは違うかもしれないが、しかし持続不可能な道への行進を辞めない人の世の苦しさと愚かさが、今の世ということも出来ると思います。(安きに流れる自分を直視してしまうなんともいえぬモヤモヤが、これを書きながらずっとありますが…)
  
新型コロナの出現は、人間がこれまでしてきた選択の連続の先に現れるべくして現れたものだという感覚が私にはあります。

そして、その序章である新型コロナが覆う世界の中で、現代にもやはり求道者はいるんだとあらためて思います。彼ら彼女らはかつての求道者のように深山には籠らず、最前線にいてくれている。

自分は求道者にはなれないかもしれないが、その求道者たちの”摸”にいち早く反応できる自分でありたいとは思うのです。
  
これは、希望なんだと思います。痛みを伴うけれど、必ずここでシフトをする先に訪れる世界は素晴らしいものだという希望。

意味を見出そうとして見てみると…

このタイミングで、キングダム57巻を手にして、この623話と624話を読むことには、意味などなく単なる偶然かもしれない。でもそこに意味を見出すとしたら?

この李牧のように、その求道者たちが出す答え、見せる”摸”に注視せよというメッセージにように思えてならないのです。

キングダムやっぱりすごい! 原さんほんと凄い!

(あらためて李牧の横顔は、常にいつも崩れず一定だよねってつい思ってしまったことは内緒(笑))





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