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噓日記 6/18 界隈の自浄

この世にはあらゆる界隈が存在する。
ファッションやゲームなどがさらに細分化されて、コミュニティが出来上がっている。
SNSなどで繋がり、互いを褒め合う文化の中で彼らにはもはや他者の目線が介在しない。
言わば自分の延長のような他者からの評価しか受け付けない状態へと陥っている。
自分の好きな自分でいられる、そう言葉を変えてみると大層素敵なものであるが、一方でその界隈から外れた所から俯瞰してみるとそのコミュニティの歪さが目についてしまう。
例えば音楽ゲームの界隈があったとしよう。
そこでは腕前の良いプレイヤーを優先的にプレイさせることが暗黙の了解である、という認識があるとする。
そこに私のような一般プレイヤーが紛れ込んだらどうだろうか。
プレイする機会さえ与えられない、もしくは与えられていないと錯覚してしまう危惧があるだろう。
しかし、界隈の中からすると異端は間違いなく私で、異を唱えるものこそが明確に悪なのだ。
そこにあるのは自分かそれ以外かのどちらかで、自分以外の何かを否定することが自浄だと界隈は信じてやまないのだ。
そのゲーム人口の増加などはまた二の次で、今の自分のプレイを邪魔するものを排斥せねばという欲に駆られた義務感だけがそこに存在する。
果たして彼らには自分の姿が本当に見えているのだろうか。
自分を延長した他者の言葉の代弁者となっているに過ぎないのではないだろうか。
私が言いたいのはたった一つ。
彼らの自己と認識する範囲の広がりはいずれ破滅をもたらすということだけだ。
勝手なルールを定め、新規を縛りつけることで既にいたコミュニティから人を締め出していく。
その間にも自己の認識がコミュニティ内で徐々に広がり、コミュニティの総意こそが自らの意思決定だと思い込む。
このように非公式が公式に成り替わり自治を行い、その発展の邪魔をしているきらいがどの界隈にも散見される。
公式こそが絶対だという認識が昨今の界隈には欠けているのではないだろうか。
公式が白を黒といえばそれは黒なのだ。
黒と呼ばれる白に公式が舵を切ったのならば、それに乗るか、それとも降りるか、それはそのクルーであるコミュニティに属する人間がその度に自由に決めて良いのだ。
昨今の界隈には義務感が強く働いている。
そこにいなければという強い思い込みが、義務感となって彼らを縛り付けているのだ。
コミュニティは安心と決断を与えるのだ。
決断せよ。
自らが息絶える場所は自分で選べる。

どりゃあ!