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噓日記 9/30 好きな短歌を紹介します

パック寿司の蓋に
醤油の小袋を開ける
生活の温度感。

好きな短歌を紹介したいと思い筆をとった。
先の短歌に出会った時、私はそれが孕んだ人生の冷たさと人間の体温が作る平熱にいたく感嘆した。
パック寿司の蓋のペラペラな材質に、開け放たれた醤油がパタパタと音を立てて溜まり、それが端の方に流れていく。
その流れをコントロールするために蓋の下にちょっとしたメモ帳なんかを挟み込んで手前に醤油を流す。
パックの端の方にある鯛の握りを割り箸で摘んで、溜まった醤油にちょんと浸けて、口に運ぶ。
そして缶のビールを眉間に皺を寄せたままクッと飲んで、一つ息を吐き、テレビのリモコンのなんとなくの定位置を見もせずに探り、電源を点けてみたら贔屓でもない球団同士のナイター中継。
それからチャンネルを変えるでもなく、ただそれを雑音として受け入れる。
薄いオレンジ色の照明の下、スポットライトのように照らされた彼・彼女はまた寿司に箸をつける。
自然とそんな薄暗い食卓の情景が浮かぶのだ。
独り身の横着さと生活の知恵のバランスとパック寿司というちょっとした贅沢のコントラストが短歌に込められた温度をより際立たせる。
それは、どういうことか。
短歌に登場するアイテムたちの冷たさに気付くだろうか。
寿司にしても、醤油の小袋にしても、パックにしてもそのどれもが温かみとは離れたものである。
それらが組み合わさって食卓を彩り、その最後に横着な生活の知恵が温度を与える。
それが丁度差し引かれて、平熱となるのだ。
こんなものでいい、このくらいがいい、そんな丁度いい幸せの姿。
幸せ過ぎない、不幸過ぎない、丁度いい平熱。
その最後を結ぶ句点。
句点が短歌を締める。
本来句点は文末を区切るものであるが、この短歌の句点が表すのは継続。
一つの出来事の区切りでありつつ、それがまた継続するという決意の証なのだ。
「パックの寿司の蓋に小袋の醤油を開けて食べた」、それくらいの小さな幸せを積み重ねて、その積み重ねで描くのが人生であるということを示すための句点。
ここに痺れた。
本来の意味とは違う意味で句点に意味を持たせている。
終わりであり、終わらない人生という平熱。
冷たく、そして温かい、丁度いい平熱。
心地よさだけを残してくれる。
この短歌と出会えたことは、私の人生にとって生きる指針になったように思える。
丁度いい、平熱。
この短歌を詠んだのはかの大文豪、太宰治、の作品を何作か読んだことがある私だ。

どりゃあ!