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嘘日記 3/22 絵本

久々に絵本を読んだ。
読んだと言っても子育て中の友人宅に遊びに行き、机の上に置かれた絵本にちょっとばかし目を通しただけだが。
最近よく見かける所謂大人向けの絵本ではなく、子供向け絵本、つまりガチガキ向けだ。
本の内容は寓話のようなもので、イソップ物語を改変したようなよくある内容だった。
しかし、読み進める度に覚える違和感があった。
なんとなく物語中の倫理観に置いていかれているような、そんな感覚。
ふと気になって出版された年を確認する。
1981年。
絵本にしてはなかなか古い本だ。
そこでなるほどと合点がいった。
昔の物語だから、私はその表現的な乱暴さが気になってしまったのだろう。
近代ではアップデートされるべき内容がそのままになっていたのだ。
しかし、そこでふと疑問が生まれた。
私の倫理観の醸成はどうやって為されて、どういうフローでこの絵本に対して嫌悪感を持ったのか、そして私はなぜアップデートされるべきという傲慢な視点に立っているのかについてだ。
私の倫理観は正しくニュースや本、それこそ絵本などから教えられた"正しさ"に従っているきらいがある。
借り物の正しさではあるが、他人と共有しやすく自他で物事の判断基準にしやすいため私はそれを私の倫理観だと位置付けている。
この倫理観から逸脱したものを私は嫌悪する。
今回の絵本の場合、ストーリー自体には問題がなかった。
細かい表現方法が荒々しく、子供らしさがなかった点や、やや差別的な意図を感じる部分があったというのが問題のある部分だと感じた。
これらは時代によって淘汰されてきた表現であるし、なかなか最近は見かけることも叶わないようなものだったため面食らってしまったのだ。
私の借り物の倫理観は簡単に時代と交わってアップデートを繰り返してしまう。
だから、出版物のような時代が固定されるものと齟齬が生じる。
このアップデートというものはいささか乱暴で、世にある"間違い"に対して攻撃的になりがちなのだ。
だから、今回私はこの本に対してアップデートされるべき内容だ、と断じるような高圧的な立場に立っていたのだろう。
では、私の倫理観という正しさは、例えば私の死後どうなるのだろうか。
アップデートする術を失い、中空を漂い続ける私の倫理観はきっと新たな時代の誰かにそっと断じられるのだろう。
アップデートされるべきだ、と。
寒気がする。
私はそんな新たな時代の誰かになっていないか。
そんな現代の寓話。

どりゃあ!