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嘘日記 3/28 夜が怖い

この日記を書き終えて、24時を迎えるまでの数時間。
私はそれがとても怖い。
今日と明日の狭間に、明日を迎え入れるように強要されているようでその時間がどうしようもなく苦痛なのだ。
明日生きることを求めているのは他でもない私の体なのかもしれないが、私の心は今この瞬間にでも体が朽ち果てバラバラになり、山野にその塵芥が降り注ぐ事を望んでいる。
そんな肉体と精神の乖離がこの夜のアンバランスさを強く縁取っている。
消えてなくなりたい私が肉体によって生かされているのだ。
そもそも、私は精神こそが人間の主体であると考えている。
その精神が、肉体の意思に従わされているのだ。
抗いようのない生に向かって突き進んでいく体と時計の針が、無慈悲にも私の精神を置き去りにしていく。
コツコツと音を立てて進む秒針が、まるで巨大な岩石をその姿が無くなるまで羽衣で撫でるような永遠、そんな途方もない時間の虚しさを小さな部屋に反響させる。
こんなにも純粋に明日の世を、明日の夜を夢見る肉体に私はどう向き合ってやればいいのだ。
精神と肉体、その両方が同じベクトルに向かうことで初めて自己という存在が決定するのだと私は考えている。
常に生を求める肉体に対して、常に死を夢見る私は今後も自己という存在が曖昧なまま生に縋るのだろう。
いずれ肉体がその欲求を失い、死へ向かい始めたとき。
そのとき初めて私は私と言う存在を確認するのだ。
明日を願って今日を眠る、そんな心身の一致を私は夢見る。
昨日を思って明日は消える。
そんな精神の一種の澱は、きっと生涯消し去ることができないのだろう。
私の心の奥底に溜まってしまった澱は、火葬場で身を焼き、魂が天に還る時にどうかそれごとあの世に連れて行ってやりたい。
黒煙と共に空へ還る私の魂で澱を抱いて、死を教えてやりたい。
私も知り得ない私だけの死を。
私の澱と共有したい。
半身である肉体と死の瞬間にしか共有できない感覚を、精神の中で澱んで溜まってしまった何かだけが理解してくれたこの感覚を。
とまあ、ここまでつらつらと意味のない内省のような何かを連ねたが、私が24時までの時間が怖いという理由はもっと人間の根源的な欲求だ。
つまり何が言いたいのかというと、簡単に言えば翌日働きたくないのだ。
なんで働かなきゃいけないのか。
働くくらいなら消えてしまいたいという、しょうもない話だ。
働きたくない、サボりたい。
生き物の生存に例えるなら働くことは狩ること、サボることは待つことだろう。
私は待ちたいのだ。
口を開けたまま空を見上げて、死なない程度の水分と死なない程度の栄養を。
ありえないと分かりながらも、次の餌をねだるため口を開ける。
水分と栄養を求めて。
精一杯の言い訳と共に。

どりゃあ!