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噓日記 11/29 おもしろの強調

ウェブ記事において面白さを強調するのは悪手だと思っている。
ここで言う強調とは、ここで笑わせたいぞと思う部分で使用される太字やフォントサイズを大きくするなどの文字装飾のことを指す。
元々、この面白の強調はテキストを読み慣れない人間に向けた分かりやすさの為に存在するものだと思うのだが、昨今はその計算された分かりやすさの表層だけをなぞった粗製濫造が蔓延っている。
この手法が生まれたのはテキストサイトからの流れを汲んでいるのだと思うが、その当時のそれらは計算されたバランス感覚があった。
文章に抑揚があったのだ。
低空から突如として現れる太字のインパクトが分かりやすさと山場を我々読者に与えてくれていた。
だが、現代でそれらの手法に安易に飛びつく者たちはそこに至るまでの空気感の醸成や文章全体での力感への配慮にまで思考が至っていないように思われる。
文章の初めから高いテンションで読者へ問いかけを行い、筆者の落としたい部分で太字、フォントサイズ変更、画像の連発、そんなことをされてしまえば読者が読み疲れてしまうことは容易に想像ができるだろう。
その様子はまるで、つまらない元気な大学生の相手をしているように思えてならないのだ。
もはや一人相撲の様相を呈していると言っても過言ではないだろう。
現代でも有名なエンタメサイトではこれらの手法を巧みに使いこなす古兵がまだまだ力を見せているが、そんな古兵に憧れた雑兵たちが上部だけの真似易さからそこだけを真似てしまう。
こうして粗悪品が世に蔓延っていくのだ。
私が言いたいのは正しく、文字装飾は諸刃の剣であるということ。
文章力以外の部分を武器にしてしまえば、その分かりやすさにだけ着目されてしまう。
言い方を厳しくするならば、着目される代わりに読者側のリテラシーを信頼していないという見方をされてもおかしくないということなのだ。
事実、読者側のリテラシーはそれらの表現に追随するように下がっていくことは想像に難くない。
本来ならば伝わらない層にまで伝えてしまうからだ。
私は読者を信頼し、できる限り文字装飾などを用いずに文から読み取れる私の心の機微を感じてほしいと思っている。
それが正しく伝わるも伝わらないも、それもまた文章の生むグルーヴであり、面白さなのだ。
私はあえてそれのコントロールをする必要なんてないと考えているし、そのコントロールが必要なほど読者を軽んじる必要もないと思うのだ。
文章とは不思議なもので、図らずも書き手の精神が宿るもの。
私はその精神を飾らずに世に送り出したい。
ゴリラのキスの擬音、ゴリチュ

どりゃあ!