見出し画像

嘘日記 3/21 祝日

世間は今日、祝日らしい。
なるほど仕事が休みなわけだ。
一日家でゴロゴロするのもなかなか居心地が悪いので、午前中から家を出てちょっとした外出をしてみることにした。
朝の九時、普段は人が通らないような細い裏道から公民館を目指す。
幼少期はこのように知らない道を選んで進んだものだ。
今となれば笑い話だが、近所にも前人未踏の何処かがあると幼い私は信じていた。
勿論、今はその幼さを理解しているが、改めてこうして裏道を通ってみると当時の私のような興奮と、大人の視座でしか発見できない喜びがいくつかあった。
塀の上に置かれた謎の瓶、木のうろに隠された小さなチラシ、読めないような変わった苗字の表札。
子供の頃の身長や視点では到底発見できないような"面白さ"がそこにはあった。
そうした発見の連続の末、公民館に着いた。
その公民館には小さな図書室がある。
幼い頃から通い詰め、多くの時間はここで過ごした。
本に囲まれたこの部屋こそ、真の私の理解者だと錯覚するほどに、私を構成する殆どがこの部屋で得られたものだった。
近くの棚から青い装丁の小学生向けであろう本を手に取り、椅子に座って開く。
物語は都会生まれの少女が田舎に越して、土地の人々と交流することで人との繋がりを学び、何もない田舎だからこそ発見できる小さな気づきを学ぶ、そんな小さな一夏の冒険だった。
先ほど、公民館までの道のりで幾らか童心を刺激された私はその本を貪るように読んだ。
少女に自分を重ねたのだ。
先ほど自分が見つけた"面白さ"を肯定してくれるような、自分の中の感覚を許容してくれるような包容力がその本にはあった。
本を読む間、まるで自分が許されているかのような感覚さえあった。
私は自分でも驚くほどにその本に夢中になった。
少女がスクール水着で川遊びするシーンの挿絵は3回戻って見直した。
今日この本をシリーズも含めて4冊ほど読んでしまった。
そう書くと私の熱中具合も伝わるだろう。
昼食も忘れ読み耽り、いつの間にか公民館の閉館時間が差し迫る。
私は今日、この本で童心と小さな発見への気付きを学んだ。
昔の私が持っていたもの、今の私が思い出しかけていたものを見つける最後の一歩に向けて、この本は背中を押してくれたのだ。
この本から学べることはあと一つ。
人との繋がりだ。
私は帰宅し、玄関からリビングへ声をかける。
「ただいま」
リビングに続く扉から今日一日家にいたであろう父親の顔が覗く。
父親は私の顔を見るなり言った。
「無職のくせに一日ウロウロとどこに行っていたんだ」
今日、父親の仕事は休みだった。
そんな戦う男の安息に合わせる顔がないから私は一日外出したのだ。
これもまた人との繋がりなんだろうか。
世間は今日、祝日らしい。

どりゃあ!