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噓日記 5/26 文学のすゝめ

天は人の上に人を造らず。
その言葉ばかりが取り沙汰されるが福沢諭吉が言いたかったのはそこじゃない。
その言葉はアメリカ独立宣言を翻訳した自著の西洋事情から引用されたものであり、本文中では否定されている言葉なのだ。
諭吉はむしろ平等に生まれたはずの人間にも差が生まれる、その差を埋めるのは学問であると説いている。
まさしく耳障りのいい言葉だけを安直に読み解いた学のない人間が、慰めのように人の上に人を造らずと引用する。
皮肉なものだ。
後世に伝わる素晴らしい作品であろうと、読み解く人間によって曲解されてしまう。
死人に口なしとはその通りで、そんな人間の浅はかな読み取り方を諭吉は否定できないのだ。
こうやって文章の読み取り方が後世になるほど正確性を失っていく時、私は自分が書いた文章について考える。
勿論、福沢諭吉のような高名な思想家になれるとも思っていないが、少なからず文章を作品として世に送り出している。
私が生きている間になら作品にどうケチを付けられようと気にしない。
それに対して言い返せる程度の自負と誇りがあるからだ。
しかし、私が死んだ後、作品はどうなるのだろうか。
付けられたケチに返す言葉もなく、ただ駄作として消えてしまうのだろうか。
文章とは時代に置き去りにされやすいコンテンツだ。
作者の死により最終稿が決定付けられ、以後はその死の瞬間を切り取られ評価される。
特に最近の人権意識とは噛み合わない部分があるだろう。
人間は何故か他国の人権意識や差別意識を必要以上に当事者として捉え、ありもしない問題を掘り起こして問題があると騒ぎ立てる。
それが昨今の風潮だ。
いずれ私の文章、特にこの文章が掘り起こされたとすれば大問題になるだろう。
この文章は言わば現代の価値観や自己決定に対する問題提起なのだ。
2200年の未来を生きる君よ。
今、世界はどうなっているか?
私のいない世界で世界はどう回っているか?
君のいる世界に君はいるだろうか。
私はこの固定された時代に、あえて残したい。
万物に対する全ての疑問を未来に託したい。
君はそこにいるのか?
君の決定や君の判断の主体に君という無意識は介在できる世の中だろうか。
もし、その無意識が介在できる世の中ならば、私の文章はまだ死んでいないはずだ。
むしろそこでまた新たな産声を上げられるはずだ。
2200年の君よ。
どうか君が君であることを祈る。

どりゃあ!