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噓日記 4/25 魂の所在とオリジナル語彙

魂が奥まっている。
これは私だけの言葉だ。
昔、読んだ本の美しい筆致や表現技巧に感化され、学生時分にどうにか自分だけの感覚を自分だけの言葉にできないかと苦心して生み出したのがこの表現なのだ。
意味としては自己の発露に向けた向き合い方が自己中心的で他罰的である、として私は使っている。
学生の私が考えたに過ぎないこの言葉だが、私の人生において強くその行先を照らしてくれた、もしくはその道程に深く影を落としてくれた。
安易に先人の言葉を借りるならば、人生とは選択の連続だ。
あの時こうしていれば良かったという後悔を何度も繰り返して、自分の選択はまぁ二番目くらいには正しかったんじゃないかと納得して腹落ちさせる。
それが私の理解する人生なのだ。
そこで先の言葉、魂が奥まっているが現れる。
自らが選択した人生に、自らのエゴは表れているだろうか、そう内省する為の言葉なのだ。
自分がそうしたいから選んだのか、誰かがそうして欲しいから選んだのか。
その違いだけで我々の人生は、顧みた時の悔いが異なる。
自分がしたいことを選ぶということは即ち、自らを責める余白を生む。
誰かがそうして欲しいから選ぶということは即ち、誰かという存在を仮定して上から目線で施し、そしてその責任を他者になすりつけるような悪逆なのだ。
私は自分を責めるのは常に自分であるべきだと考えている。
だからこそその余白を生む為に自らのエゴを信じる、そんな自らの魂の本質と向き合うような仕草をする必要があると自分に言い聞かせるのだ。
あの時の私は魂が奥まっていなかったか? そう顧みるときもあれば、これからの私の魂が奥まらないようにせねば、と自戒することがある。
この言葉は私にエゴと本当の慈愛を教えてくれたのだ。
あの学生時代から時は流れ、いつの間にか人の上に立つような立場となった。
何人もいる部下に口酸っぱく伝える。
魂を奥まらせるな、と。
彼らのエゴが魅せる余白を彼ら自身で捉え、そして自らでそのエゴの責任を取れるような、そんな真の意味での人間になってもらえるように。
愛すべき部下のために、私は私の魂を奥まらせない。
このどうしようもないエゴを彼らに押し付けるのだ。
そんな私が今朝、社長室に呼ばれた。
部下から投書があったらしい。
部長が意味の分からない言葉で説教をしてくる、パワハラではないか? と。
魂がぐっと奥の方に引っ込んでいく感覚がする。
冷たい汗が胃の奥を流れるような感覚がする。
あぁ、魂が奥まっていく。

どりゃあ!