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噓日記 6/17 恋文とテレビと

今日もテレビを流し見していると、誰かの恋文が晒しあげられ、馬鹿にされ、笑いものにされていた。
なんでも不倫相手に宛てた文だとか。
俺は誰かを好きという気持ちをバカにするような男にはなりたくない。
誰が誰を好きになろうと勝手だが、その想いを伝えることさえ憚られるような世の中ならもうこの世にいる意味なんてないと思う。
誰かに届けた言葉、それが恋文なら尚更だ。
言葉にもならないような気持ちを自分の持ち得る語彙のなかで無理矢理にでも言葉にして相手に届けたい、そんな思いを無碍にするような無粋な男を俺は許せないのだ。
道を違えた恋であってもその時に抱いた言葉さえも踏み躙るのであればそれは人権侵害だとさえ思っている。
しかし、テレビを見たら何だ。
誰かに宛てた恋文を、いじめはダメだと声高に叫ぶ第三者が視聴者に向かって読み上げている。
それをやれ、いい歳してだ、表現がだ。
恥を知れ。
それをいじめと呼ばず何と呼ぶのか。
俺はそういう無粋が何よりも許せないのだ。
人を愛す、人に愛される。
そこで生まれた感情さえも晒しあげられるこんな世の中に本当の愛はあるのだろうか。
俺は俺の好きだという気持ちに嘘をつきたくない。
誰かを好きでいられる世の中であって欲しいのだ。
そして何より、人を想った事実が嘘にならない世の中であって欲しいのだ。
今回俺がそう感じた原因であるテレビにはほとほと愛想が尽きた。
以前から程度の低い番組を公共の電波で垂れ流す様は見ていられないと思っていたが、その中に光るものが時折紛れ込むのを掬い上げようと思う程度には嫌いではいられなかった。
しかし、ワイドショーはどうしても救えない。
ワイドショーはいつだって公明正大を装って、その時々で立場を変えて弱者をいたぶる。
それがあたかも正義かのように謳って、薄ら笑いの仮面を被り咎人を晒し上げる。
人に十字架を負わせるのはどんな時代でもこういう碌でもない奴らと碌でもないメディア、そしてそれに踊らされる愚かな民たちなのだろう。
自らが誤った時、磔にされることを覚悟もせずに恣意的なプロパガンダで民意を誘導する薄気味悪さ、それをワイドショーは放っている。
誰かの違えた道の前に、まず自らが違えた道を立ち返れ、そう思ってやまない。
誰かを貶めるために筆を執るな、誰かを救うために筆を執れ、俺の師はかつてそういった。
ワイドショーは救えないと前述したが、正しくいうならワイドショーは救われる気もないのだ。
彼らには自らの正義しか見えていないから。

どりゃあ!