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雪山に紡ぐセーター 4


「暑い」
とにかく暑い。蒸し暑い。
ここは広東省にある縫製工場。日本向けのセーター・ニットを作っている。
留学生活を終えて就職した会社の発注先工場だ。

半そで短パンという、本来は、工場勤務にふさわしくない服装(刃物、薬品などから防護するため、工場では長袖長ズボンが基本です。)でフラフラと工場の中を歩き回っていた。


1年間の上海留学が、残すところ3ヵ月となった頃、事件が起こった。
中国でSARSという病気が流行ったのだ。どんな病気だったか、詳しくは覚えていないが、ちょっと強めのインフルエンザのような病気だったと思う。コロナに比べると規模も感染力も弱い病気だったのではないかと思うのだが、当時は大騒ぎになり、日本からの留学生は、日本の大学の指令によってみんな引き上げていった。

自分も留学生なのだが、日本にベースとなる大学があって留学しているわけではなく、現地の大学に直接応募して留学しているので、無所属(?)だ。従って日本の大学に帰れという指示を出されることもない。
もし、この時に引き上げ指令が来て、日本に帰っていたら広東省の工場で働くこともなく、アパレル業界で仕事をすることも無かったのではないだろうか。

日本・アメリカ・欧州勢。本国に帰国するような余裕のある留学生達は引き払ってしまい、ガランとなった上海の町で、留学期間が終わった後、何をしようか考えていた。なんとなく日本に戻って普通の仕事はやりたくないなあ。と考えていた。
そんな時に、たまたま上海で知り合った駐在員に声をかけられて働くこととなった。

「それだけ中国語ができれば大丈夫だよ。現地の様子を見て、日本に伝えてくれることと、日本からの連絡事項を工場に伝えてくれたらいいから。」

中国のよくわからない地方の工場で働くということに不安が無い訳では無かったが、上海でのサバイバル経験を思い返すと、まあ何とかなるだろうと思うことができた。

アパレル業界の構造として、日本でデザイン・企画をする → 中国の工場に発注 → 生産 → 納品 という流れになっている。中国に自社工場を持っている会社もあるが、自分の会社はそんな資金力も無いため、中国の会社に発注をして、その会社が持っている工場で作ってもらっている。広東省には、そういった発注先工場がいくつかあるそうだ。

今でこそ、中国といえば「世界最先端のIT技術があり、日米を追い越さんばかりの技術力を持っている」ようなイメージにもなってきたが、当時(17年前、インターネットをダイヤル回線でピーガガガーって言いながら通信してた時代ですよ)は、「急成長しているみたいだけど、まだまだ胡散臭い国。」というイメージだった。
中国の工場に発注をすると、納期は守らない、仕様通りのモノができ上がらない。あげくの果てには、手付金だけ取って、音信不通になる。など、様々な噂(事実?)を聞いたものだった。
ただ、その会社の人が言うには、「それはさらに10年前のこと」だそうだ。
先人たちが苦労して中国の工場を開拓し、一定の信頼関係を持ってビジネスができる取引先を確立しているらしい。そして、中国側の会社の考え方として、仮に日本の会社にひどい手抜きの不良品ばかりを掴ませたとして。その瞬間は儲かるかも知れないが、1回限りの取引で終わってしまう。それよりは、日本の会社に納得してもらえる製品を作り、何回も取引を継続した方が儲けることができるというように考え方が変わってきたようだ。彼らは、こういった損得勘定は極めて合理的だ。

ただ、信頼できるとはいっても、それなりのチェックや納期管理が必要で、現地に駐在する担当者が発注先工場を巡回する必要があるそうだ。他の会社からの発注が優先されて後回しにされてしまったり、こちらの注文書通りのものができてなかったりというトラブルを防ぐため、実際に工場を訪れ作業の進み具合や仕上がりを確認するらしい。

こういった説明も後押しとなって、その人の会社にお世話になることにした。

自分は上海に留学する前は「石屋」で営業マンをしていた。墓石であったり、建設用であったり、様々な用途の石を切り出して販売する。
営業マンというものの、小さい会社なので製造現場にも顔を出して進捗確認をしたりしていた。職人さんの気分で納期や精度が変わってきたりするので、「お疲れ様でーす!」と言いながら缶コーヒーを渡すことも大事な仕事だった。小さい会社のアナログな現場とはいえ、石の切り出しから研磨、装飾加工まで一連の工程を勉強し、進捗管理をしていたのだ。全てではないにせよ。アパレル工場でもある程度は通用するに違いない。

更には、「大図解 生産管理」「トヨタの奥義、カンバン方式マニュアル」などの本を数冊買ってみた。世界に誇る日本式モノづくり。生産管理を中国の工場に導入するのだ。
革命的な工場にしてやる。新しい仕事に対する不安はいつの間にか期待と野望にすり替わっていた。

しかし、当たり前のことながら、現実はそんな単純ではなかった。
「なんでそうなるの?」そう思わない日は無かった。

「大丈夫!大丈夫!ここまで出来上がっているから納期に間に合うよー(中国語)」

と言われていたはずの製品が、なぜか間に合わない。どういうことかと聞くと。

「製品に、ボタンがついてなかったのよね。私、全部ボタンが付いてると思ってたんだけど、付いてなかったのよね。だからちょっと遅れるよー。(中国語)」

「なんでそうなるの?」

見たらわかるだろう。工程の流れからして、ボタンが付いてるか付いてないか、わからないわけがないだろう。ツッコミたかった。問い詰めたかった。だが、それが意味の無い行為であることは明らかだった。

じゃあ、全部自分の目で確かめてやる。各工程を歩き、製品の出来を確認し、順調にできている。これは間に合うぞと思っていたら、縫製機械が急に動かなくなり。しかも修理に1週間はかかると言い出した。
「なんでそうなるの?」

一方で、驚異の力を発揮することもある。ある時、大口の注文に対応しなければならなかったのだが、工場キャパや今の受注状況から計算するとどう考えても間に合わない。
間に合わないことを日本に伝え、リスケや分納などの対応を協議すべきだと主張したのだが、工場の製造部長は「大丈夫、日本に報告する必要はない」の一点張り。製造部長を押し切って日本に報告すべきかどうか、かなり悩んだのだが。そうこうしているうちに、なんと、納期の3日も前に製品が全て完成してしまった。
「どうやって作ったの?」

「頑張ったんですよー。祖父江さん。頑張ればこれくらいできるよー。(中国語)」

なら、普段から頑張れ。と言いたかった。言いたかった。言いたかった。
彼らは、今回の仕事は非常に重要で、なんとしても仕上げなければならないことを察していたのだろう。そういったビジネスの勘が良いのはいいのだが、こちらの底を見抜かれてるようで、腹立たしい。

すったもんだの毎日で、とても、日本の生産管理手法を持ち込む余地など無かった。

「いいかー、山内、その時はインターネットも無くて、携帯電話なんかも貧弱で、FAX送ってもノイズでザラザラになって読みにくくて。それでも、FAXだの電話だのでやり取りして、工場に指示出したり、日本と折衝してたのよ」

「その工場がほんとに暑くて。日本の工場みたいにキレイで空調が効いてたりはしないから。糸と綿が舞っていて埃っぽくってさ、そんでもう、とにかく暑い。もうね。あの暑さを半分くらいここに持ってきたいね。」

「そん時に考えたのはさ、100着作って、2着の不良品が混じってたとして。この不良品を無くす努力をするべきか。最初から102着作っておけばいいのか。真剣に考えたのよ。品質って何?モノづくりって何?」

「機械が動かないだ、Tシャツの色が違ってるだ、担当者が退職したからわからないだ。毎日いろんなトラブルが発生してそれをその都度対処するしかなかったね。
根本解決ができないかと思って、工場の進捗確認ボードとか、工程管理担当者をつけるとか。提案もしてみたけど聞いてもらえないか、まったく効果がなかったかどちらかよ。あの時は、自分の無力さを感じたなあ」

後輩、山内は、面白い話なんだけど、この状況でよくそんな話ができるなあ。と思いながら聞いていた。雪山で遭難している状態で延々聞く話なのだろうか?脱出に向けての話し合いをするべきではないのか?

コーヒーも飲み終え、再びじわじわと寒さを感じるようになってきた。
テントに入れた嬉しさとコーヒーの暖かさで何となく寒さを忘れていたが、布一枚(スノーフライをあわせると2枚)を隔てた外は氷点下の世界だ。

リュックの中からマットと寝袋を取り出した。


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