少女と女の過渡期 金木犀の香る季節
風の中から何かが私を呼び止める。
その秘めやかな気配に振り返り立ち止まると、辺りは瞬く間に金木犀の香りに包まれ、私の心は一挙に46年の月日を遡り始める。
その夏の初め私は17歳になった。
「17歳って、
南 沙織の歌もあるし、何か特別な事があるんちゃうやろか?」
期待で胸が膨らむ中、迎えた夏休みが何も起こらないまま、もうお盆が過ぎてしまった。
「何とかせなあかんわ」
と、焦った私は友達に提案を持ちかけた。
「ねぇ皆んな、旅行に行こうよ」
私は、関西地方の小さな漁師町で生まれ育った。
小学生時代の遊び場は、波止場の周りを取り囲むテトラポット。
飛び移りながら遊ぶのである。
もし隙間に落ちたら?
今想像すると身震いする程だが、お転婆だった私は怖いもの知らず。
私と同じように、その危険な遊びに夢中になっていたのは、小さな頃から姉妹のように育った3人の同級生達だった。
再三の親の注意もどこ吹く風。
懲りもせず、その危ない遊びに夢中になっていたお転婆4人娘。
学齢が上がるに連れて、私達は益々仲良しになっていた。
高校生になりそれぞれ通う学校は違うものの、毎晩の長電話で心が繋がり、何でも打ち明け合う心友同士だった。
学校で出来た友達もいるにはいたが、プライベートはいつも4人一緒。
お転婆4人娘は、幼馴染という強い絆で結ばれていたように思う。
その夏休みも、毎日のように誰かの家に集まり、だらだらと他愛のない女子トークに花を咲かせていたのだが、余りにも変化の無い毎日に、誰も彼もうんざりしていたので、私の提案は直ぐに纏まった。
「何処に行きたい?」
「サザンの湘南みたいな
ところがええわ!」
昭和53年の夏は、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」の大ヒットで幕が開いた。
センセーショナルな桑田節が大旋風を巻き起こし、
「今何時?そうね大体ね」
が、流行り言葉となり、歌の舞台である湘南も全国に知れ渡った。
生まれてこの方、いつも私のすぐ側にある海は地味で垢抜けないが、サザンが歌う湘南の海は、なんてお洒落で素敵なんだろうと、夢が膨らむばかり。
急いで旅行会社に行き、パンフレットから選んだのは、電車とバスを乗り継いで5時間もかかる小さな海辺の町だった。
バスの中では胸がワクワク。
「どんな素敵な所やろ…
きっと湘南みたいよね〜」
と、ピーチクパーチクお喋りが止まらない。
バスはゆらゆらと峠を抜け、やっと着いたのが寂れた人気の無い海岸だったから、バスを降りるなり、
「うっそー!」
「えぇっ、ここなん?
ここやったら、わたしらの町の方が遥かに賑やかやわ」
バスの中では、あれほどぺちゃくちゃとお喋りしていたのに、民宿まで歩く道すがら誰も口を聞かず、商店も無い埃っぽい道を黙々と歩くだけだった。
湘南の華やかな海を夢みていたのに、我が町より地味な所に来てしまったのだから致し方もないが。
「あーあー。あのパンフレットに騙された」
ところがその後、予想も出来ないサプライズが私達を待っていたのだ。
民宿に着いて始めての夕食時だった。
隣のテーブル座っていたのは、なんと!体育会系のイケメン4人組。
彼らの視線を感じ、私達の瞳は急に爛々と輝きを放ち初め、目と目で会話仕合い、部屋に戻るや否や彼らの話題で持ちきりになった。
お転婆娘達は、意外にも男の子の話しとなると小心者揃いである。
「皆んなかっこいいやん!
仲良くなりたいけど、どうしたらええんやろ?
よう話しかけんし‥」
作戦会議で名案が出ず、チャンスが来るように神様にお願いしながら眠りについた。
そして翌朝。
私達の切なる願いが神様に届いていたのである。
「おはよう!」
食堂で顔を合わすなり彼らから朝の挨拶があり、自己紹介をしてくれた時は、びっくり!キャー嬉しい!
彼らは大阪に住む高校三年生。ラグビー部の仲間達だった。
一学年年上の彼等とは共通の話題も多く、あっと言う間に距離が縮まった。
それからは3度の食事はもちろんの事、お昼はボート乗り、夜は花火にトランプ、肝試しと。
共に時間を過ごし、8人は、まるで旧知の仲間のように親しくなった。
彼等にはスポーツで鍛えられた行儀の良さと生真面目さがあり、そしてとても優しい男の子達だった。
瞬く間に夢のような時間が過ぎて行った。
青春ドラマのような甘い4日間は、忘れられない夏の想い出となり、熟年になった今も私達の胸に息づいている。
皆で集まる度にこの想い出話しで盛り上がり、ぺちゃくちゃお転婆4人娘に戻ってしまう。
17歳の夏を彩るには充分な想い出をくれた彼等だが、もう一つ忘れられないエピソードがある。
彼等のリーダー格で親分肌のS君との想い出である。
彼に急な事情が出来て、仲間達より一足先に、私達と同じバスに乗り大阪まで帰る事になった。
私達はバスを降りてから、地下鉄に乗り継がねばならないのだが、大阪の地下街はとても広大で分かりずらく、迷子にならないか不安が募った。
それを心配してくれたS君が、
急ぎの用事もあり、彼の帰路からは遠回りになるにもかかわらず、私達が乗り慣れている駅まで送ってくれたのだ。
「バイバイS君」
彼を見送った途端、賑やかな地下街を改札に向かって歩きながら、それまで誰一人自分の想いを口にしなかったのに、
「私はHが好き!」
「私はS君!」
と、それぞれの想いが溢れ出し止まらなくなってしまった。
その時、地下街に初めて聴く歌が流れて来た。
[鳶色の瞳に誘惑の翳り
金木犀の咲く道を]
「きんもくせい って素敵な響き。初めて聞くわ。
どんな花なんやろ?」
想い出深い夏が逝くと、シビアな現実が私達を待ち構えていた。
進路の選択が迫り、否が応でも自分の行く道を選択せねばならない。
もう親友達とも
「皆んな一緒に」
と、足並みを揃える訳にはいかない。
そして又、それぞれに恋の季節が訪れていた。
女の子は恋と別れを積み重ね、女の人になってゆく。
その第一歩を歩み出したのだ。
大人への階段を登る時が来ていた。
その秋、私は初めて金木犀に香りがある事を知った。
懐古的な香りに過ぎ去った夏が重なり、胸の奥がキュンと
音を立てた。
誰かを恋しく想ったからではない。
夏の想い出が恋しかった。
あの夏は、少女のままでいられた最後の季節だったのだろう。
あれから、いつの間にか半世紀近くの歳月が過ぎ去った。
今年も又、金木犀の香りはあの時代へと私を誘う。
大人への過渡期と呼ばれる17歳。
少女から女へと変わり行った季節へ…